アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識と歴史

私は自分の身を守るために読書をしなければならない!ラカンは、人間は本当の目標では無い「代理の目標」で満足するのだと言いました。そして、かつての私の満足もまた「代理の満足」でしかありませんでした。私は自分の満足が「代理の満足」でしかなかったことに、長い間ずっと気付けなかったのです。だから読書を!

読書をしなければならないのは、自分の中に「歴史」を形成しなければならないからです。私に形成されていると言えるのは、生物史とカメラ史くらいのものです。それがあるからマシだとは言えますが全くの不十分には違いありません。認識とは歴史であり、歴史が認識を成立させるからです。

「○○について知っている」とは「○○の歴史を知っている」ということです。ですから何についても歴史を学ばない人は、何についても知ることが無いのです。あるいは、多くの人は断片的な歴史認識に飛びつき、自らの認識を単純化し固定化します。その意味で私は、これまで生物とカメラ以外についはほとんど何も知らず、そんな状態で作品製作をしてきたのです。

例えば私の「フォトモ」も、私が身に付けたカメラ史と生物史の知識によって作られたものでした。フォトモは「写真が平面である」事の自明性への疑いから生じましたが、それは写真の技術的側面、つまりカメラ史の知識によって生じた創造的疑問、および操作項目だったのです。

フォトモの被写体であるところの「非人称芸術」は、非常に貧弱な美術史および、思想史の知識と、これに比べると少しは豊かと言える生物史の知識によって生じたと言えます。私は人間を「野生動物」として捉え、路上の家や街並みを人間が作る「巣」だとしてみたのです。

貧弱で不十分な歴史認識は、イデオロギーをもたらします。貧弱で不十分な歴史認識は、イデオロギーとなってその人を縛ります。貧弱で不十分な歴史認識は、必然的な「偏り」を生じ、必然的に判断の自由を奪います。豊かな歴史認識を有する人は、それだけ「自由」に振る舞うことが出来るのです。

歴史認識を得ると、それに応じて自由な思考空間を得る事ができます。つまりブリコラージュの素材を収めた棚が増えれば増えるほど、自在でダイナミックなブリコラージュが可能になります。対してエンジニアリングとは、どのような思考でしょうか?

ブリコラージュに対するエンジニアリングは「技術史」に根ざしています。技術史とは一つの現実界です。対してブリコラージュとはつまるところ言葉の産物です。言語は特有の飛躍性、創造性、ダイナミズムを有します。ブリコラージュとエンジニアリングは相補的です。

網膜像とは光学理論によって作り出される現実界です。それが、どのような認識によって歪められるのか?歪みのない網膜像そのものを抽出しようとした歴史と、網膜像にどのような歪みを生じさせ得るかに腐心する歴史とがあったのです。

絵画の一側面は「目くらまし」です。絵画に限らずどの分野においても目くらましが存在します。

芸術的才能が無くとも、作品制作できる方法が「方法」です。
その意味で私は一つの「方法」を開発したと言えるのですが、ひとつの方法だけでは「方法」として不十分であるのです。