アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

人間と自明性

「自明性」ということが認識と創造の敵なのです。いや、認識とは創造的認識であって、自明的認識は認識とは言えないのです。なぜなら自明性とは動物的本質だからです。人間の子供はまず「動物としての人間」の本質である「自明性」を獲得します。

生まれたばかりの人間の子供は、動物として不完全であり自立できません。生まれたばかりの人間の子供は、その意味では動物ではないのです。人間の子供は成長してまず「動物」になります。それは数々の「自明性」を学ぶ事によってです。

生まれたばかりの人間の子供は、いまだ動物でさえなく「自明性」を学ぶことで自立した「動物」になります。そしてその次に、そのように獲得した「自明性」に疑いを向けることによって「人間」になるのです。これが、人間のしての創造的認識です。

自明性を獲得しただけの大人はある意味「動物」でしかありません。動物はそれぞれの種に応じた自明性を生きています。対して人間は「本能が壊れた動物」という言い方がされます。しかし壊れた本能は言語によって自前でプログラムされ、それが人間に特有の、そしてそれぞれの文化に特有の「自明性」となるのです。

「自明性」は壊れてしまったとされる動物的本能の代替物であり、したがって「自明性」を身に付けただけの人間の大人はその意味で「動物」なのであり、「人間」になるためにはいったん獲得した自明性に疑いを向ける思考をしなければならないのです。なぜならそれが人間と他の動物のと違いだからです。

例えば私にとってピカソキュビズムは「自明のキュビズム」であってそれ以上の要素に分解して認識することができない。つまり私はキュビズム絵画を、動物的に認識しているに過ぎず、それが自明性のいう現象となって生じているのです。

キュビズムの登場に先立ち、写真術が登場しています。写真が登場すると画家に必要な能力の種類が変化します。すなわち写実によって「目くらましの技」が使えなくなった画家たちは、画家としての別の能力を開発する必要があったのです。それまでも画家には様々な能力を身に付けてましたが、その重要な一つが封じられたのです。その一つがキュビズムであったと考えることが出来ます。