アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

フッサール『現象学の理念』抜き書き

何がそのように不可解であるのか、また認識の不可能性をまず差し当り反省する際に我々を当惑させるのは何であるか、という点を仔細に考察してみると、結局それは認識の超越性である。
科学以前の認識も、それに科学的認識でさえも、すべて自然的態度の認識は超越的客観化の認識である。
この種の認識は客観を存在者として措定するのであり、認識の中に〈真の意味で与えられている〉のでなく、認識にとって〈内在的〉でない事態を認識し、それに的中すると、そう自負しているのである。

 

認識作用は、つまりコギタチオは実的要素を、すなわちこのコギタチオを実的に構成する要素を持っているのであるが、しかしコギタチオが思念するもの通常コギタチオが知覚するとか、記憶するなどと言われる事物は体験としてのコギタチオ自身の内にその一部として即ち本当にその中に存在するものとして、実的に見出されるわけではない。従って「どのようにして体験はそれ自身を超え得るのであろうか?」と言う事が問題である。従ってこの場合内在的とは認識体験の中に実的に内在する事を意味するのである。

 

正当な懐疑。すべて排除するこのような所与存在が、すなわち思念された対象性そのものをあるがままに端的に直接的に直感し把握する事が、重要な明証の概念を、しかも直接的明証という意味での明証概念を形成するのである。
明証的でない認識、即ち対象的存在を確かに思念ないしは措定してはいるが、しかし[対象〕そのものを直観していない認識は、すべて第二の意味で超越的である。
このような認識の場合我々はその都度真の意味で与えられているもの、直接的に直観され把握されているものを超え出るのである。
この場合には「どのようにして認識は認識のうちに直接的に真に与えられていないものを存在者として措定しうるのであろうか?」と言う事が問題になる。