アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

難解と困難

現象学とは現実ではなく現象を研究する学問であり、「現実」という現象に惑わされる事なく、「現実」を含むいろいろな現象を対象とした学問なのです。

人間には自然に生きる事と、人工的に構築する事の、2つの事が可能です。これは動物の中で人間だけに備わった特徴です。

現実は人を惑わせます。だから現象学が必要なのです。目の前の現実が疑いようもなく存在する、ということ自体が現象として生じているのです。人は現実に騙されます。人を騙す現実というもの自体が、現象として生じているのです。

「時間」や「私」といった概念は、改めて考えると非常に不可解です。改めて考えると不可解なのは、そこに「騙し」が含まれることの証拠です。つまり私にとって「時間」や「私」がありありとした実在として、疑い得ない自明性として存在すること自体「現実」が仕掛ける「騙し」の典型なのです。

常に人を騙そうとする現象として、現実というものは立ち現れます。そして人は誰でも現実に騙されたいという欲望を持ち、その欲望そのものが現象してるのです。そして現象学とは、そうした現実のいろいろの騙しを打ち破り、現象を現象として見抜く力そのものだと言えるのです。

現象学的観点によれば、現象の外部としての「現実界」を措定することはできません。しかし現実界は現象の内部に現象として確かに存在する。例えば私の祖母も父も亡くなりましたし、友人の若い写真家の内野雅文くんもある年の正月明けに突然死したのです。そのような不可解さは現実ではなく現象なのです

すなわち超越的客観の疑似所与性と現象そのものの絶対的所与性との相違、を見極められるようにするための回り道であり便法であるに過ぎない#フッサール

 

言葉にされると難しく感じますが、作っている者としては現象を考えながら作っている訳ではないのであまり現象について深くは考えていません。只、自分の記憶と関係している事は確かです。しかし記憶を再現しているというより作り変えていると言った方が正しいです。

 

作ることに没頭できる間は、余計なことを考える必要もないと言えます。私が現象学を必要とするのは、何よりも行き詰まっているからです。分野に限らずアーティストにとって行き詰まりは大きな問題で、これを乗り越えられるかどうかが生死の別れ目です 。

現実は人を騙し、現実は人を惑わせます。だから人は現実に圧倒され、現実を前に萎縮します。だからこそ、現実を現象と見抜く現象学が有効になるのです。現実を観察する科学と、現象を観察する現象学とでは、この点が異なっているのです。

 

私は音楽からimaginationという言葉を導き出しました。モランディを見てるとモランディは悪い場所からStill Lifeという言葉を導き出したのだとおもいます。普遍的な言葉や音楽から作品を考える事は可能だと思います。

 

言葉や音楽や時間が自分にとって有効に作用しているなら、それらの自明性を疑う必要もないでしょう。しかし私は行き詰まり、新しい作品を生み出すのが非常に困難になってきました。その突破口、新たなステージとして現象学を必要としてるのです。 

現実は人に対し「騙す力」「惑わす力」「圧倒する力」として作用しています。それが、哲学が困難であることの大きな理由です。哲学が難解だと言うのは実は見せかけで、哲学とは困難なものであり、だからこそ厳しい修行を必要とするのです。

「怒り」や「悲しみ」や「空腹」などが生じている時、それはすなわち「現実」の力が増している時です。「恐れ」が生じている時も、「現実」はそのパワーを増しています。「現実」が人を惑わす力が増減するさまを観察することも、「現象学」の一つと言えます。

糸崎さんはあまり本を読んで頭を一杯にしない方がいいかも知れないないですね。逆に本を売るなどして頭を軽くした方がいいかもしれませんね。本を売ると頭が軽くなりますよ。

 

このような批判は度々受けるのですが、もしかすると「難解」と「困難」の取り違えから生じる誤解なのかもしれません。哲学は難解に取り組むためのものではなく、まず第一に困難に打ち勝つためのもので、ソクラテス=プラトンにそれは現れています。 

哲学にはもしかすると「難解」に取り組む哲学と、「困難」に打ち勝つ哲学とがあるのかもしれません。難解に取り組む哲学は、難解そのものが目的化し、批判の対象になるのかもしれません。しかし本来、難解は困難に含まれる要素のはずなのです。 

私は行き詰まっていますが、そもそもアーティストは行き詰まるものなのです。新人アーティストの多くはデビュー後に行き詰まってやめてゆくのです。巨匠と言われる人も行き詰まり、退屈な自己模倣を繰り返すようになります。しかしピカソのように、何度も生まれ変わるアーティストもいるのです。

 

ピカソは女性と付き合うことで作風を変えることが出来たのだと思います。

 

人それぞれに方法はありますが、何らかの方法できい詰まりを打開することは必要です。いや、行き詰まりを解消しないのも、一つの方法かもしれません。もちろん行き詰まりがないのでしたら、それが一番いいと言えるかも知れません。

現実が人に作用する力は均質ではありません。例えば空腹感が増すに連れ、現実の力は大きくなります。すなわち空腹感が増すにつれ、空腹がありありとした現実として立ち現れてくるのです。怒りや悲しみや恐れについても、同じことが言えます。ブッダやソクラテスが指摘したのもそれであると言えます。

現象の観察にはパッシブ=受動と、アクティブ=能動、の二つの方式があります。私が現象に働きかけると、現象に変化が生じ、この変化によって現象そのものが観察できるのです。例えば私がTwitterFacebookに投稿すると、他人から様々なリアクション(無反応を含め)が得られるのです。