アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

的中と推理

有り体に言えば、考えによって見え方が異なります。つまり現象は指向性とも深く結びついているのです。

推理は的中するまで意味も価値も持ちません。シャーロック・ホームズの推理は的中するからこそ意味があり、的中しないワトソン君の推理はいかに論理として完結していようとも全く無意味なのです。そして人は誰でも名探偵で、常に様々な推理を重ねています。となると、重要なのはその的中性の自覚です。

認識の源泉とは、犯行現場をこの目で直接見ることです。あるいはどのような推理をしようともその結果、自分が直接犯人に出会うことです。いかに辻褄のあった見事な推理であろうとも、推理それ自体は「認識の源泉」にはなり得ません。しかし多くの人は様々な推理をしながら、取り違えをしているのです。

 

絶対的現象が、還元されたコギタチオが、我々にとって絶対的自己所与性として妥当する理由は、それが個別性であるからではなく、それが現象学的還元の後の純粋直観によってまさに自己所与性として開示されるからなのである…ぜひこの点を明晰に自覚しておかねばならない。#フッサール

 

認識を理解することは、認識の目的論的関連を類的に明晰化することに他ならないのであり、そしてこれらの関連が結局は知性の諸形式のいろいろな本質類型の特定の本日関係にもなるのである。 #フッサール

 

 

本来的に推論は的中の手段であり、的中するならばいかなる推論も不要なのです。しかし多くの場合、推論でしかないものの内容が、あたかも的中した事項のように取り違えられているのです。