アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

スーパーマンとクラーク・ケント

分析はどの段階においても、直接的直感によって構成される類的事態の本質分析であり究明である。#フッサール

 

この研究をアプリオリな客観化的諸科学と区別するのは、その方法と目的である。現象学は直感的に解明し、意味を規定し、意味を区別すると言う方法で研究を進めるのである。現象学は比較し、区別し、結合し、関係づけ、部分に分かち、あるいはまた諸要素を分離するのである。#フッサール

 

しかし全て純粋直観によって行われるのである。現象学は理論化したり数学化したりはしない。すなわち演繹的理論の意味での説明は行わないのである。現象学は客観化的科学を支配する諸原理たる根本命題を解明するのであるから、客観化的学問が始まるところで現象学は終結するのである#フッサール

スーパーマンクラーク・ケント。なぜスーパーマンは、自分の正体を世間に隠してクラーク・ケントとして生活しなければならないのでしょうか?例えばイエス・キリストは自らの正体を隠すことがなかったがために、パリサイ人たちから激しい嫉妬を受け、十字架に掛けられたのでした。

哲学を学べば、通常とは全く異なる認識力や思考を身に付けることができる、という意味で哲学を学べばスーパーマンになれます。しかし職場や学校の友人や家族などに哲学の話をすると疎まれます。つまり哲学を学んでも、実生活ではクラークケントとして振る舞わざるを得ないのです。

以上の意味で、中島義道先生が「哲学を学んでも何の役にも立たず、むしろ害悪になる」と主張する事は、まさにその通りだと言えるのです。