アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

現象学と生活世界

フッサールの言う「生活世界」とは何か?それは現象学的還元の対義語なのです。つまり現象学的還元が行われなくなると、生活世界に戻るのです。

哲学的訓練が未熟な者は、現象学的還元をしても持続せず、すぐ生活世界に戻ってしまいます。哲学的訓練を重ねた者は、生活世界を現象学的還元へと完全に「裏返す」ことができるようになります。ドラゴンボール孫悟空も、はじめは超サイヤ人に短時間しかなれませんでしたが、修行によってこれを克服し、超サイヤ人に長時間なれるようになったのです。

生活世界は現象学的還元によって「裏返す」ことが出来ますが、別の方法で「壊す」ことが出来ます。まず自分が死ねば生活世界は壊れます。また死ななくとも犯罪を犯せば生活世界は壊れます。正確には現在の生活世界が壊れて、犯罪者としての全く別の生活世界に移行します。

あるいは勤めている会社をサボってそのままにしたりしていると、生活世界は確実に壊れます。正確にはこれまでの生活世界が壊れ、仕事を失いホームレスとしての全く別の生活世界に移行します。

人は自分の生活世界が壊れないよう維持しながら、そのために生きていると言えます。その生活世界を壊すのではなく「裏返す」のがフッサール現象学的還元です。

現象学的還元を遂行するには生活世界を対象化する必要があり、その方法として、生活世界を「壊す」ことをイメージするのは有効ではないでしょうか?

例えば職場で、何の理由もなく突然、同僚の顔面を思い切り殴り付けると、それだけで生活世界は壊れます。いやもっと確実には、商店街で突然通行人を包丁で刺し殺すことです。人殺しはしなくとも、会社の金を横領すれば生活世界は壊れます。

たとえ犯罪がばれなくとも、犯罪者とそうでない人の生活世界は異なります。その意味では人によって、立場によって生活世界は異なるし、自分の生活世界も時とともに変化を余儀なくされると言えます。そして自分の生活世界をなるべく変化させないよう守る人と、生活世界を積極的に変えようとする人がいるのです。

現象学的還元は、自らの生活世界を自在に操作し変化させるための手段でもあるのでしょうか?現象学的還元によって生活世界が対象化できれば、それは操作可能な項目として立ち現れるはずです。

もしかすると、哲学に無縁な人であっても、生活世界が変化するその場において、現象学的還元に相当する事態が生じているのかもしれません。生活世界が別の生活世界に移行するその断絶の場においてです。あるいは、生活世界から別の生活世界への上昇的変化において、現象学的還元が立ち現れるのでしょうか。

 

しかし勿論我々が個体的な個々の領域にとどまる限り、そのような判断を以ってしても格別たいしたことはなし得ない。ただ我々が類的本質判断を構成する場合にのみ、我々は学問が要求しているような確固たる客観性を獲得できるのである。#フッサール

 

従っていかなる場合にも大切なことは、任意の現出を所与として論定することではなく、所与性の本質と対称性の諸様態の構成とを洞察することである。#フッサール