アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

簡単と困難

事象そのものに的中する認識の可能性が巻き込まれている色々な困惑。どのようにして認識はそれ自体に存在する事象との一致を確認し、またそれらの事象に〈的中〉しうるのであろうか?#フッサール

 

事象は認識の中に含まれていますが、認識は事象と一致しなかったり、認識が事象に的中しなかったり、これは頻繁に生じているのです。なぜこのようなことが生じるか?認識には全てが現象として含まれるからです。

認識は全てを含み、ですらか認識が認識に含まれる事象に一致しなかったり、認識が事象に的中しないといった〈現象〉も、認識は含んでいるのです。posted at 12:41:53

「認識が事象に的中しない」とはどういうことか?認識の的中を逃した事象までもが現象として認識に含まれているのです。

事象とは何か?認識の中にあって、認識と一致したりしなかったり、あるいは認識が的中したり的中を外したり、するものです。

 

不合理なこと。まず最初人は自然的態度で認識について反省し認識をその能作とともに諸科学の自然的態度の思考体系へ組み入れそして好き勝手な理論に熱中するがしかしそれらの理論はいつも矛盾や不合理に終わる。ー明白な懐疑論への傾向。#フッサール

 

我々はいかなる認識をも最初から認識として受け入れてはならない。そうでなければ我々は可能な、つまり有意義な目的を失うであろう。#フッサール

自分はなぜ自分の認識を疑うべきなのでしょうか?それは自分の認識以外に複数の他者の認識が存在するからです。自分と認識と他者の認識は〈現象〉という観点で同等であり、ですから「自分の認識である」という理由だけで「他者の認識より正しい」という事の証拠にならないのです。

現象学的還元は、物事を比較し判断するための「天秤」を正常に作動させる働きを持ちます。自然で素朴な態度によると「自分が認識した」という理由によって天秤に負荷がかかり、正常な比較を妨げているのです。

そこで明晰性の第一段階は「実的内在者またはここでは同義語であるが十全的自己所与は疑いようがない」ということであり、これを私は〔認識論の出発点に〕利用することができる。しかし超越者(実的に内在しないもの)を利用することは許されないから、それ故私は“現象学的還元”をすなわち“あらゆる超越的措定の排除を遂行”せねばならない。#フッサール

 

私が求めているのは明晰性であり、私が理解したいのはこの的中性である。#フッサール

フッサールが求める明晰性、的中可能性とはつまり「簡単に的中できること」であるのです。的中が難しい事柄はそもそも的中不可能であり、そのような的中にチャレンジする事に意味は無い。多くの人は実に困難にチャレンジすることを繰り返し、人生を消費してるのです。

名探偵は困難にチャレンジすることなく、簡単に的中できる事柄だけを言い当てます。一方、間抜けな警視総監殿は困難な的中にチャレンジし、そのためにあらゆる的中を外すのです。ポーの『盗まれた手紙』とはそのような小説です。

例えばチョウの飛翔写真の名人は、同じ種類のチョウの中から撮影が簡単な飛び方をする個体を目ざとく見つけ、これを撮影するのです。対して昆虫写真の素人は、飛び回るチョウを闇雲に追いかけて撮るという困難にチャレンジし、その結果何も撮れずに疲れ果てるのです。

フッサール現象学的還元とは「やっても無駄な事とは何か」を見極め、これを行わないよう戒める事でもあるのです。