アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

反応と現象

現象学的還元とは一切の超越者(私に内在的に与えられていないもの)に向こうの符号を付けることであり、即ちその超越者の実在と妥当性をそのまま定立しないで、せいぜい“妥当現象”として定立することである。

例えば一切の心理学や自然科学などあらゆる科学を私はただ現象として利用するに過ぎず、従ってそれらを、私にとって〔認識批判学の〕手がかりになりうる妥当的心理の体系としては、また前提としても仮説としてさえも、利用してはならないのである。

要するにこの原理の本来の意味は、この認識批判学で問題になっている事象から離れず、ここに伏在する諸問題を全く別の問題と混同しないよう絶えず勧告することである。

認識の可能性の解明は客観的科学の道にあるのではない。

認識を明証的自己所与性へともたらし、その中で認識の能作の本質を直観しようとするのは、それは演繹したり、帰納したり、算出したりすることではなく、それはすでに与えられている事象や、あるいは所与とみなされている事象から、それらを根拠に新しい事象を導出することではない。#フッサール

フッサールの言うメタバシス=移行の意味がようやく分かりました。有り体に言えば「取り違え」です。例えば「見える」とはどのような事か?という問いに対し科学は目の構造や、目の構造を模したカメラの構造を引き合いに出して説明します。しかしこれは説明可能な科学的原理であって「見える」ことの究極の原理ではありません。

実は人間にとって「見える」とは「現に見えている」と言う現象がありありと直感できることであって、それ以上の説明は不可能なのです。ですから「見える」事の原理を科学的に説明する事は、本来説明できないことが、可能な説明に移行しており、ここに取り違えが生じているのです。

フッサールは生まれつき目が見えない人に「見える」とはどういう事か?をどれだけ科学的に説明しようとも理解させる事はできないと述べています。まさに「百聞は一見に如かず」で、「見える」とはどういう事か?は「実際に目が見える人」しか理解できないし、その理解のために一切の説明は不要なのです。

科学とは何か?一つは科学的に説明可能な範囲での説明です。もう一つは、科学的に可能な範囲での現象のコントロールです。科学は科学的な説明によって、現象をコントロールします。たとえば写真やカメラといったものも、科学的説明によって現象がコントロールされたことによって生じた、新たな現象であるのです。

私が現象に働きかけると、現象は変化し新たな現象が生じます。例えば私が誰かに話しかけると、その相手が反応するという現象が生じます。同じように、科学的な手順によって現象に働きかけると、それに応じて現象は変化し、新たな現象が生じます。カメラや自動車とはそのようにして生じた現象です。

そもそも私は人に話しかけたり何かを作ったりしなくとも常に現象に対し積極的に働きかけ、新たな現象を生じさせているのです。つまり例えば私は常に体を移動させて目を移動させ、そのように現象に働きかけながら常に「見える」という現象を変化させ、新たな「見える」という現象を生じさせているのです。