アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識とくじ引き

現象学の基本は認識批判ですが、逆を言えば人は自然的態度において自分の認識に対し無批判で絶対の自信を持っているのです。

自分の認識に対し無批判であることは、ずいぶんと荒っぽい、粗野な態度であり、だから自然的態度でもあるのです。それは人間の動物としての完成された態度です。

●素朴な人は残酷で、力の弱い人も残酷です。つまり素朴な人は力が弱いのです。たとえ筋力が強くとも、素朴な人は筋力以上の強さを持たず、力が弱く残酷なのです。

力の弱い者は力の強い者に虐げられ、その恨みはさらに力の弱い者に向かい、残虐で残忍な行為に及ぶのです。力の弱い者は、力が弱いがゆえに自分の残虐さを自覚するがことなく、それゆえに残虐さをエスカレートさせるのです。

●優れた芸術作品は素朴に「もの」として存在するのではなく、優れた芸術作品として「現象」しているのであり、素朴に「もの」としてどのように存在するかではなく、どのように「現象」してるのかを注意深く観察する必要があるのです。

「優れた芸術作品」はどのように現象してるのでしょうか?芸術に限らず、優れたものを優れていると認識するにはそのための訓練が必要で、優れた芸術もそのように現象しています。

何が優れた芸術なのか?を認識するのに自分の自然な感性は全く基準にならず、それが認識批判の基本です。それでは何が基準になりうるのか?一つには「優れた芸術」という言葉が存在するその現象を、注意深く認識することです。

何が優れた芸術であるかを的中させるのは難しい。認識とは基本的にくじ引きと同じで、当たりを引くのは難しいのです。認識批判学とは、自分が引いたくじが当たりか外れかを検討する学であり、自然的態度においては外れくじを引いても当たりと信じ込み、そもそもくじを引いたという自覚もないのです。

認識批判をしない素朴な人は、飴玉と交換できない外れくじを引いて、外れくじでしかない紙切れを握りしめて、それを飴玉そのものと錯誤するのです。

認識批判学において当たりクジを引くにはどうすればいいのか?それにはまず「飴玉に引き換え不能の外れクジ」と「飴玉に引き換え可能な当たりクジ」と「飴玉そのもの」と、それぞれの認識が必要です。なぜなら認識批判をしない素朴な人にとって、それぞれが未分化で一体化して認識されるからです。

芸術とは何かといえば、物ではなく現象です。芸術が自然現象でないとすれば、芸術は何によって現象するのでしょうか?

自然物は芸術の類似物ですが、自然物は自然現象である点において芸術とは異なります。もし誰かが「自然現象こそが芸術だ」と主張したとしても、自然現象とは異なる芸術が存在するという現象を否定することはできません。

芸術は自然現象ではなく、誰かが絵を描かなければ絵は現象せず、誰かが彫刻を彫らなけれ彫刻は現象せず、誰かが写真を撮らなければ写真は現象しません。いやしかし、カメラで写真が写せること自体は自然現象であり、画家が物を見るそのこと自体はカメラと同様自然現象なのです。

人間にとって、物を見ることができるそのこと自体は自然現象です。ですから認識批判をしない自然的態度の人が物を見るということは、そのこと自体が自然現象であるのです。

物を見ること自体が自然現象である人、これは実に自分のことでもあるのですが、その人格は「私」が存在しない「非人称」ではないでしょうか?

「私」がない人が「私」と名乗る時の「私」とは何でしょうか?猫も犬も「私」を名乗らずとも自己主張はします。つまり真の意味での「私」に先立って、自然現象としての個体認識は存在するのです。