アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

敗戦とフランス革命

現象学的に考えると「自然現象」と言えるものが確かに現象しているのです。一方で、「自然現象ではない現象」が現象しています。このふたつの区別は実に曖昧なものを含んでいます。

自然現象以外の現象とは、一般に人間の仕業による現象を指します。例えば絵画は誰か人間が描かなければ現象せず、従って自然現象とは区別されます。しかし人が描く絵画の全てが自然現象ではない、と言い切れるでしょうか?

人間が動物の一種だとすれば、人間の行いの全てを「自然現象ではない」とする事には矛盾があります。「自然としての人間」と、「自然とは区別される人間」とは、どこで区別されるのでしょうか?

人間は「本能が壊れた動物」として現象しており、そのため人間は「本能の代替物」を言語によって構築する、というように現象しています。ですから人間が言語を使い行動プログラムとしての文化を構築すること自体は自然現象だと言えるのです。

動物のしての本能が壊れた人間は、言語を使って本能の代替物を構築します。そして実にこの「構築」という点が「自然現象ではない」事の要点ではないでしょうか?

私は現代日本人としての常識や習慣に従って生きていて、それこそが本能の代替物であり、ただ本能の代替物に従って生きる限り、それは本能に従って生きる動物と同様、その生き方自体が自然現象だと言えるのです。フッサールの言う生活世界とは、自然現象という現象なのです。

「自然は素晴らしい」という価値観はイデオロギーなのに対し「人工物は素晴らしい」という価値観はイデオロギーではありません。なぜなら「自然は素晴らしい」という価値観は人工的環境が成立した後に発生したのであり、自然物しか存在しなかった時代に自然そのものを対象化する価値観が生まれようがないのです。

「自然は素晴らしい」という価値観そのものが転倒を含んでいるのです。そのような主張をする人は例外なく人工物の快適さを享受しつつ、その上で人工物を否定し自然を賛美しているのです。

自然農法による農作物にこだわる人は、農薬や化学肥料は否定しても、水道やガスやフライパンを使って料理をし、これらの人工物は否定しないのです。

私も自然農法による農作物の方が美味しいと思っていますが、その心をよく反省してみるならば、私は人工物そのものを否定しているのではなく、農薬や化学肥料によって「農作物という人工物」が不味くなっていることを問題にしていたのです。

一般に「自然現象としての植物」は不味いので、人間はこれを改良して「人工物としての美味しい野菜」を現象させたのです。ところが野菜の育て方にさらなる改良を加え、化学肥料や農薬を導入すると、かえって野菜が不味くなり、野菜の人工物としての品質が劣化してしまうのです。

化学肥料や農薬は人工物ですが、野菜も自然物とは異なる人工物で、だから野生植物より野菜は美味く栄養豊富なのです。ところが化学肥料や農薬を多用すると、人工物としての野菜の品質が劣化して不味くなります。つまり自然農法の問題は「人工物の劣化」が「自然の賛美」に置き換わっているのです。

文明の基本の一つが農作物だとすれば、農作物とは自然物の加工品です。であるならば、芸術とは本質的に自然物の加工品ではないでしょうか。すると加工品とは何か?が問題になります。例えば「絵画とはこういうものだ」という自明性によって描かれた絵画は加工品と言えるのでしょうか?

あるいは野菜にも「美味しい野菜」と「美味しくない野菜」があるように、自然物の加工品にはある「志向性」が含まれています。この「志向性」から外れた加工品を、加工品と言えるのでしょうか?つまり「志向性」から外れることそれ自体が「自然現象」だとは言えないでしょうか?

道路に沿って自動車を走らせたり、交通規則を守りながら自動車を走らせることが「志向性」です。たとえ人口の産物である自動車を運転したとしても、「志向性」を失って道路や交通規則を無視して走らせるならば、その行為は動物が生じさせる自然現象と何ら変わるところはありません。

芸術には芸術としての「志向性」があって、それは道路に沿って車を走らせる志向性や、美味しい野菜を作る志向性などと同じく、自然物を加工する人工物としての志向性です。そして不味い野菜が野菜としての志向性から外れているのと同様、芸術の志向性から外れた芸術もまた現象しているのです。

私こそがそうであったのですが「自然こそが素晴らしい」と思いなしている人は基本的な錯誤をしているのです。例えば生物の巧妙なメカニズムに感動する人は、それが自然物であるにもかかわらず、まるで人工物のように巧妙であることに、感動しているのです。

人間の技術が進歩して、人工物が巧妙になればなるほど、これとの対比によって自然物の巧妙さがより明らかになり、自然への賛美も増してゆきます。その判断には基本的な錯誤と「思考停止」が含まれているのです。

現代日本人は特有の錯誤に囚われていて私も例外ではなかったのです。一つには優れた芸術はそれが優れていると認識することは難しく、特有の訓練が必要であるにもかかわらず、独自の「才能論」がそれに取って代わっていることです。

私もそれに囚われていた「才能論」とは、才能がある人は何の訓練もせずともそれが可能であり、才能のない人はどんな訓練も無駄であるという、その決定的なあきらめを植え付けるイデオロギーです。

全部を岡本太郎のせいにしようとは思いませんが、岡本太郎『今日の芸術』には芸術作品を売ったり買ったりする話は一切出てこないのです。岡本太郎にとって芸術とは「すべての人がつくるもの」であって、決して売り買いするものでは無いのです。

岡本太郎の「芸術はすべての人がつくるもの」とは何を意味しているのか?一つには権威としての芸術の否定であり「偉そうにしているもの」の否定です。そのイデオロギーは敗戦と深く結びついていると、最近になって歴史を勉強し直している私はふと気付いたのでした。

日本の敗戦とは何か?一つには日本にフランス革命が起きたのです。日本の軍人として威張っていた人達、庶民を苦しめて偉ぶっていた人達を、フランス革命のように全部やっつけたのが日本の敗戦なのです。やっつけたのは大日本帝国と敵対してた連合国で、これが日本の軍政から日本の庶民を救ったのです。

日本の敗戦によって日本にフランス革命が起きたのです。だから岡本太郎は『今日の芸術』においていわゆる「偉そうにしている芸術」を全面否定し、芸術を「すべての人がつくるもの」へと反転させたのです。しかし実際に芸術は「すべての人がつくるもの」にはならず、それはイデオロギーに過ぎないのです

「偉そうにしている芸術」を否定し、芸術を「すべての人がつくるもの」とする事は、エントロピーの増大を意味し、それでは芸術はなり立ちません。実際に戦後日本の現代芸術はほとんど市場が形成されず死んだも同然なのです。

有り体に言えば、勉強しないと芸術は理解できないし、そのための勉強は楽しいのです。ところが私は子供のころ勉強が大嫌いで、勉強しなくて済む美大に逃げたのです。しかし大学を卒業し社会人になって程なくしてから主体的に勉強するようになり、勉強の面白さにあらためて気付いたのです

主体的にする勉強は楽しいが、勉強させられることは楽しくありません。なぜ子供のころの私に勉強する主体が立ち現れなかったのか?一つにはテストという制度のせいかも知れません。勉強の結果がテストの点数に還元され、「勉強は楽しい」という本来の目的がスポイルされるのです。

人に教えられることと、自分で学び取ることはペアで考えるのが良いと思います。本を読むことも、その著者から自分が教わることと同じなのです。色んな人から物事を教わると、特定の人に感化されず、自分独自の考えが形成できるようになります。