アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

案内板と迷路

情報とは何か?英語で言えばinfomationですが、それはつまり“案内板”なのです。現代は情報化時代と言われますが、それは世界にさまざまな案内板が乱立し、それらが様々な方向を指し示し、各自がどこへ向かってゆけば良いのか?かえって迷ってしまうような状況と言えます。

あるいは深く考えることもなく、手近な案内板にただ従いあらぬ方向に導かれてしまうのです。情報とは本来、目的地を指し示した案内板のはずですが情報化時代においては情報そのものが目的化されます。例えばコカコーラが売れるのはその味〈目的)ではなくCMを媒介とした情報=案内板が売れてるのです。

また専門用語を排して日常語で書かれた哲学の入門書は、哲学への道を示した案内板ではなく、それ自体が目的化された案内板だと言えるのです。その意味で法華経もまた目的化された案内板であり、この経典には「法華経は素晴らしい」という讃辞が書かれているだけで、法華経の内容は書かれてないのです。

さらに遡れば情報は古代ギリシアから存在し、ソクラテスは情報によって処刑されたのです。「ソクラテスは処刑すべき人物だ」と言うというその方向を指し示した案内板に、当時のアテナイ市民たちは導かれたのでした。

情報の起源について考えると、人類はアフリカで発生し世界中へと移動していった生物であり、このために“案内板”が必要になるのです。いやそうではなくて、案内板が必要なのは後続の人々であり、先発の人々は何の案内板もなく移動するからこそフロンティア精神だと言われるのです。

情報のさらなる起源を辿ればそれはDNAであるのです。人類はDNAが外部化された言語機能を持つが故に情報機能を獲得したのであり、この言語をさらに外部化した文字を発明することで情報機能を飛躍的に発達させ、産業革命によって情報化社会と呼べるほどのインフォメーション機能を獲得したのです。

哲学は情報ではありませんが、哲学についての情報があるのです。哲学の入門書は哲学の情報であり「○○と言われている」という言葉で埋め尽くされ、これを読んでオリジナルの哲学書を読まず、安心するのです。

つまり情報化社会に於いて、人びとは案内板の矢印を見るだけで、目的地に向かうことなく満足するのです。情報化社会に於いて人びとは、まさに私もそうでしたが情報=インフォメーションの海に閉じこめられ、情報が本来的に指し示す目的地に決してたどり着くことが出来ないという構造になっているのです。

岡本太郎『今日の芸術』を読んでもその書物時代が「情報の迷路」であり、本来の目的地である「芸術」にたどり着くことは決してないような仕組みになっているのです。私は情報のトートロジーから脱出しようと自分なりにあがき、一定の成果を上げながらも、一方ではさらなる迷路に陥ることになったのです。

芸術には本来的な意味での芸術と、情報としての芸術とがあります。現代日本の芸術においても、「私は芸術をやっています」という「情報」としての芸術が含まれているのです。擬態とは情報による真実の隠蔽です。芸術家を名乗りながら「自分は芸術家である」という情報によって「自分は真の芸術家ではない」事を隠蔽するのです。