アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識と外部世界

自分の目にありありと見えているこの世界が「自分のもの」であるような気になってはいないでしょうか?自分の目に見える世界は自分にとって「周知のもの」で埋め尽くされています。もし目に見える世界に「自分の知らないもの」が立ち現れるなら、それはかなり目を引くもののはずです。

自分はこの眼で自分の外部世界を見ているつもりが、実は自分の内面しか見ていないのではないか?という疑いがあるのです。自分が見ている「外部世界」と思っているものは、実のところ自分の「内部世界」ではないでしょうか?

自分が見ている世界は、自分の素朴な実感としてはことごとく「自分の知っているもの」で埋め尽くされています。目に見える世界に自分の知らないものはありません。だからこそ自分は、慌てず騒がず日常生活を送れるのです。

生まれたばかりの赤ん坊にとって、この世のすべてが「自分の知らないもの」だらけのはずです。しかし子供は成長するにつれて「自分の知らないもの」を「自分の知っているもの」に次々と置き換えてゆきます。

動物が外部から摂取した食物を消化し自分の身体をつくるように、人間の子供は外部から摂取した「自分の知らないもの」を消化し、「自分の知っているもの」へと変換し、これらを材料として「自分の知っている世界」を構築してゆきます。

人間は動物としての身体を作り上げると同時に、自分の認識世界をも作り上げます。人間の認識世界とは、各自の身体と同様に、それぞれ個別であって、固有性があります。

つまり自分が見ている世界は「外部世界」ではなく、自分の身体と同様に個別的で固有性のある構築物であるところの「自分の内部世界」であると言えるのです。

既知のもの、自明的なもののことごとくは実は「自分の内部」に存在するのではないでしょうか?そして新に自分の外部に存在するものは、自分にとって「未知のもの」「知らないもの」「自明的でないもの」を指すのではないでしょうか?

無知の知」を知る人は認識の外部に開かれているのであり、何でも知っていると思いなしている人は「自分の内部」に閉じこもっているに過ぎません。

とは言え人間は、本質的にサンゴ虫のような群体動物です。ですので「認識の内部世界」を人はひとりで作ることはできず、小さなサンゴ虫が寄り集まって外殻としてのサンゴを形成するように、多数の人々が集まって「認識の内部世界」という大きな殻を作り上げるのです。

自分が見ているものは他人も見ているのであり、自分が知っているものは他人も知っているのです。サンゴ虫が寄り集まってサンゴを形成するように、人が寄り集まって自分と他人が共に知っている認識世界を構築するのです。

正確に言えば、人はあらゆる物事を「知っている」と思い込んでいるのであり、お互いに同じものを見て同じように「知っている」と思い込んでいるに過ぎません。そのように思い「込む」ということが、認識の「内部」世界であることを示しているのです。

人はありとあらゆる思い込みによって、自分の認識世界の内部へと引きこもっています。思い込みの強い人は「自分は知らない」と言うことを絶対に認めることなく、思い込みの外部世界へ出ようとはしません。

人と人はお互い何も知らないのにもかかわらず、お互いを知ったつもりになっており、その「つもり」によって「認識の内部世界」を構築します。人と人とが寄り集まって、サンゴのような固い殻を形成した「つもり」になって、その「つもり」によって人は安全に守られるのです。

あらためて理性的に考えるならば、自分の目に見える「知っているもの」と同じ数以上の「自分の知らないもの」が存在しているはずなのです。

動物にとっての認識世界は「自分の知っているもの」で埋め尽くされています。例えば認識力が限定的な昆虫にとって「自分の知らないも」は存在しないのです。

有り体に言えば、何も知らない人ほど「自分は何でも知っている」と言う思いが強いのです。

あるいは頭の悪い人ほど「自分の頭の悪さは知っている」と思い込んでおり、そのように自分の能力を少なく見積もって、あらゆる努力を放棄して、自分で自分の可能性を摘み取っているのです。

自分の認識世界の内部には「思い込み」しか存在ません。自分の目に見えるあらゆる事物は、自分の勝手な思い込みの産物でしかありません。「事実」は、そして「真実」は、自分の思い込みの外部にしか存在し得ないのです。