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芸術と信仰

「鰯の頭も信心から」とは、つまりは「芸術でないもの」が、信心によって「芸術」になり得るのか?という問題でもあるのです。

芸術とは何か?ひとつには「自分が芸術だと思ったものが芸術だ」ということなのであれば「芸術でないもの」に対し、自分が「これは芸術である」と思い込むことによって、そのものを「芸術」として創り出す事が可能なはずなのです。

人はものに対する見方や考え方を変えることができます。もし「芸術でないもの」に対し、見方や考え方を変え、同じものを「芸術である」と再認識したならば、そのものは物理的に未加工のまま、「芸術でないもの」から「芸術」へと作り替えられたことになります。

いったい、そのものに対する見方や考え方を変えるだけで、そのものを物理的に全く未加工のまま、「芸術ではないもの」を「芸術」へと作り替えることは、可能なのでしょうか?

世界には「加工品」と「未加工品」の2種類が存在します。未加工品は自然物です。自然物を加工したものが加工品です。加工品は人間の意図によって自然物を加工したものです。加工品は、自然物を加工した人の意図の反映物でもあるのです。未加工の自然物には人の意図は何も反映されてはいないのです。

芸術とは「芸術」という意図に基づく加工品です。つまりその「意図」そのものが間違っていた場合、いくら作者に芸術の意図があったとしても、その加工品は芸術にはなり得ません。

「芸術」以外の意図による加工品は、本来的には「芸術でないもの」です。それでは「芸術」以外の意図による加工品に対し、見方や考え方を変えるだけで、そのものを未加工のまま「芸術」へと作り替えることは可能なのでしょうか?

その前に、未加工品である自然物を「芸術である」とすることは可能なのでしょうか?いや現に「自然物こそが芸術だ」と主張する人々が存在するのです。

ところが「自然物こそが芸術だ」というその主張の前提に、自然物から区別される「芸術」の存在があるのです。「芸術」が存在しない状況において「自然こそが芸術だ」という主張は生じ得ないのです。

「自然物こそが芸術だ」と主張する人は、いったい芸術の何を理解しているのでしょうか?自然物に対し素朴に「綺麗だ」と感じ、「綺麗だから芸術だ」と素朴に思い込んでいるだけなのではないでしょうか?

芸術が「哲学を幹とする学問の枝葉」であるならば、哲学が素朴には理解できないように、芸術も素朴には理解し得ないはずなのです。

それで結局のところ自然物を芸術だと見なす人も、本来は芸術ではない加工品を芸術だと見なす人も「芸術とは何か」を素朴に見誤っているのであり、その点で「芸術とは何か」を見誤っている為に「芸術のつもりで芸術でないものを作ってしまう芸術家」と同じであると言えるのです。

「芸術とは何か」を観念により規定するのは簡単です。しかし観念によらず、状況証拠を集めながら「芸術とは何か」を明らかにして行く行為には、それ相応の手間や時間が必要で、それは簡単ではないのです。しかし多くの人は簡単な方を選び取り、それで世間には様々な「芸術とはこういうもの」という観念が存在しているのです。

自然物を芸術だと思いなしている人は、自然の美しさを芸術の美しさを取り違えているのです。そのような取り違えこそが、その人に固有のイデオロギーであり、自らのイデオロギーに立てこもることで、芸術とは何かに関する状況証拠をシャットダウンしているのです。

赤瀬川原平が提唱した「超芸術トマソン」は本当の意味で芸術たり得るのでしょうか?超芸術トマソンが芸術であるという主張の根拠の一つは「不条理」ですが、芸術とは不条理であると定義することは可能なのでしょうか?

芸術にはある種の「超越性」が現れています。そして不条理は、確かに条理に対する超越性だということはできるのです。しかし不条理に備わる条理に対する超越性が、芸術に備わる超越性と同一だとなぜ言えるのでしょうか?

「不条理ならば芸術だ」と主張する人は、不条理の超越性と、芸術の超越性とを取り違えているのではないでしょうか?いや不条理とは何か?も実に単純ではなく、不条理を単純に理解した人が「不条理ならば芸術だ」と主張しているに過ぎないのではないでしょうか?

デュシャンのレディ・メイドの概念を受け継いでいるのは、例えば写真家のベッヒャー夫妻であり、彼らは給水塔などの写真をカタログ的に並べて「無名の彫刻」と題しているのです。これに先立ちカール・ブロムフェルトが植物のクローズアップ写真を図鑑的に並べ「芸術の原型」と題しています。

つまりは第一次世界大戦後の1920年代にドイツに生じた新即物主義の写真家たちが、デュシャンのレディメイドの概念を受け継ぎ、それはアルベルト・レンガー=バッチェの『世界は美しい』という写真集のタイトルにも現れています。

ドイツの新即物主義は日本の写真界にも多大な影響を与えたとされますが、赤瀬川原平超芸術トマソンも、新即物主義の流れにあるのです。しかし赤瀬川さん自身は、著書で新即物主義に触れたことはありません。赤瀬川さんは素朴で物事を深く考えない方なので、知らずに影響を受け受けたのです。

デュシャンのレディメイドとそれを受け継ぐ新即物主義の流れは、近代という時代を背景にしています。つまり近代とは歴史上かつてないほど大量の「もの」にあふれる時代であり、これを背景に「ものの魅力」と「芸術の魅力」とが取り違えられるのです。

新即物主義の流れを汲む人は「ものの魅力」と「芸術の魅力」とを取り違えているのです。それは昆虫や植物などの自然物に魅了され、これこそが芸術だと思いなしている人も同じです。つまり近代になり世界が「もの」で埋め尽くされるようになると「もの」との比較によって自然物か再認識されるのです。

近代になり写真術が登場すると、写実絵画の技法が無効化し、それにより芸術はあらゆる表現の可能性に開かれるようになり、つまり芸術そのものが「芸術でないもの」との区別が付きにくいものへと変貌していったのです。

つまり現代芸術は本来的に「芸術でないもの」との区別が付きにくいものであって、だからこそ「難解」だと一般に言われるのです。そのような背景からデュシャンのレディ・メイドや、ドイツの新即物主義や、超芸術トマソンなどの概念が生じたのです。

新即物主義の流れを汲んで「芸術でないものこそが芸術である」と主張する人は、現代芸術が本来的に「芸術でないもの」と区別が付きにくいものであることを、背景にしているのです。45

もう一つ「作者不在」と言うことの意味です。デュシャンのレディ・メイドは芸術としての作者が不在なのはもちろん、選択においてもデュシャン自身の意図や審美眼が極力排除されているのです。

つまり芸術における作者の排除が、レディ・メイドや新即物主義超芸術トマソンの意味なのですが、「作者の排除」という概念自体が「神の関与」を暗示しているのであり、それが「芸術でないものが芸術である」ことの根拠のひとつになっているのです。

しかし「作者の不在」により暗示される「神」は、近代に特有の「現実界」が「神」と取り違えられているに過ぎないのです。このように近代においては「現実界」と「神」とが取り違えられることがしばしば生じるのです。