アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

精神と料理

 私は写真家であり美術家ではあるのですが、どういうわけか美術作品の良し悪しの判別よりも、食べ物の美味い不味いを判別する方が自信があるのです。いや以前は自分の「審美眼」にもある程度の自信はあったのですが、改めて美術の勉強をする毎にその自信は失われ謙虚になったのです。


 しかし食の美味い不味いに関しては、自分の判断基準はそれほど間違っていないというふうに思えてしまうのです。思い起こせばひとつには母親の教育の成果であったのです。私は子供の頃は母親を鬱陶しいと思ってましたが、今振り返ると私の「舌」を教育してくれたことに感謝できるのです。


 いや私は食に関して母から特別の「教育」を受けた意識はなかったのですが、それよりも母はとにかく文句の多い人で、外食や市販の冷凍食品やお菓子に対して「不味い」と容赦なく批判を浴びせる人でした。


 当時の母は後で考えると評論家の呉智英さんの言うところの「サヨク思想」の持ち主で、伝統的な自然食品を信奉し、人工調味料、合成着色料、合成保存料、などを文字通り「敵視」していたのです。そして家庭菜園が大好きで、昔の実家はけっこう広い庭があり、いろいろな野菜を育て、私もイヤイヤ手伝わされたのです(笑)


 そのようなわけで母は、人工調味料、合成着色料、合成保存料、などを使った食品に対し「不味い」「体に悪い」と猛烈に攻撃し、私もそれを聞きながら育ったのでした。


 母には当然のごとく「自分は味がわかる人だ」という自負がありました。その根拠は母の母、つまり私の祖母も味にうるさく料理が上手く、調理師免許も持っていたことにあります。しかも祖母は震災で焼け出されたとは言え、浅草の材木問屋の娘で、恐らく当時のハイカラな味を知っていただろうし、そのような「育ちの良さ」の系譜を母も意識していたのでした。

 いっぽうで父親は金沢市郊外の田舎出身のためか味が分からない人で、父のそう言う点を母は見下していたのです。そして私は、そのような母の感覚を内面化しながら育ったのでした。そして大学に入学して一人暮らしが始まると、私自身の外食に対する悪口が、当然のように出てきてしまうのです。


 大学を卒業してしばらくしてからの私はファミレスに滅多に行かなかったのですが、友達や仕事の付き合いで仕方なく食べに行くと、やはり外食的な味に「不味い」と文句が出るのです。しかしほとんどの場合、そのような文句を言うのは私だけで、他の人から「糸崎はなぜそんな不満を持つのかわからない」という顔をされるのです。食について文句を言っても誰にも同意されず、相手を嫌な気にさせるだけなので、だんだん黙るようになったのでした。


 一方で、そんな自分がどんな美味しいものを食べていたのかと言えば、大したものではないのです。自炊しても自分は特に料理がうまかったわけでもなく、面倒になって外食やコンビニ弁当が増えていったのです。


 外食の美味しいお店を開拓することもなく、行きつけのお店も特になかったのでした。たまに美味しいものを食べると、人並み以上に「美味い!」と反応するのですが、しかし味覚そのものを追求しようとする情熱は、あまり無かったのです。


 そう言えば、多くの人は不味いものにあまり文句を言わないと同時に、私が「これは美味い!」と感動たり驚いたりしても、特に賛同もしないのです。たいていの場合私は人と食事をすると、一人で文句を言ったり、一人で感動したりしてたのです。

 

 そうした私の状況が変わったのは、美術家の彦坂尚嘉先生と出会って、一緒に美術の仕事をするようになってからでした。彦坂先生は味の良し悪しのわかる方で、美味しいお店をいろいろ知っていて、私の味覚の良さも褒めてくれるのでした。そのような他者は自分にとって初めてでした。


 彦坂尚嘉先生は美術家ではありますが、物事の良し悪しの判断の基本は「味覚」にあると言うのです。それで自分の舌を鍛えるため、意図的にいろいろなものを食べて味わうようにし、好き嫌いも克服してきたのだそうです。そしてそれは、私が思っていた事とも一致していたのです。


 私の味覚は母親の教育の成果であって、私が主体的に身につけたものではありません。一方で美術の良し悪しについては、味覚ほどには徹底した教育を私は母から受けていなかったのです。ですから私は彦坂尚嘉先生と出会うことによって、自分の審美眼の不足を自覚し自己教育の必要性を痛感したのです。けっきょくのところ教育は必要で有効性があるのです。もし子供の頃に満足な教育が受けられなかったとしても、大人になって自己教育すればいいのです。


 そう言えば私は自分の味覚についての能力はあまり意識してきませんでしたが、一方で美術の才能については過剰に意識して「才能が無い」ことに悩んできたのでした。つまり私は「才能は努力で埋め合わせできない」と思い込み、それもあって絶望していたのでした。


 しかし私は自分の才能に絶望しながらも、いろいろあって努力して自己教育しなければならないハメに陥って、暫くすると相応の実力が身について美術家として活動できるようになり、自己教育の有効性を改めて認識したのです。もちろん努力にも限界はあるはずですが、才能を神格化するのは間違いなのです。

 

 彦坂尚嘉先生は「料理にしろ美術作品にしろ、人が作ったものには作った人の精神が現れている」と言いますが、私もそれに同意できるのです。確かに美味しい料理には作った人の精神の高さや善意が、不味い料理には作った人の精神の低さや悪意が、確かに感じられるのです。


 美味しい料理に感動するのは、美味しいこと自体に対してはもちろん、作った人の精神の高さや、その善意や情熱に敬意を持って、感動するのです。逆に不味い料理に対しては、最悪の部類になるとそこから明確な「悪意」を感じ取ることが出来るのです


 最悪の部類の不味い料理は、例えば母が悪口を言っていたような外食産業ですが、不味いのはもちろん、コスト削減のために質の悪い食材、代替食材を使い、これをごまかすために化学調味料や着色料や漂白剤などを使ったことがわかるような場合は、その「悪意」に対し怒りが生じるのです。


 しかし外食産業の全てが同じように不味い訳ではなく、限られたコストの中でできる限り美味しいものを提供しようという「気概」を感じられる料理を出すチェーン店は、確かに存在するのです。例えばサイゼリヤは安さが売りのイタリアンチェーン店ですが、あくまで安物でありながらも、その内に一片の美味しさと、コストの範囲内でそれを実現しようとする思想が感じられるのです。セブンイレブンも、ブラック企業として問題にはなっていますが、少なくとも味に関しては独自の「思想」が感じられ、その他のコンビニチェーンとは一線を画しているのです。

 

 ところで私が住んでいる湘南地域は、実はパンの激戦区と言われ、美味しいパン屋さんが何軒もあるのです。いや普通に「美味しい!」と言えるようなパン屋さんと、その上を行く「驚異的に美味しいパン屋さん」が何件かあって、食べる度にその味に驚くのです。

 
 美味しいパン屋さんはどこも特に高級店というわけではなく、普通の値段で驚くほどレベルの高い味のパンを提供するのです。そしてそんなお店に限って小さくひっそりとした店構えで、いつ行っても品数が少ないのです。


 そしてレベルの高いパン屋さんほど、それぞれ味が違って個性的なのです。そこにパンを作る人の「思想」が現れているのです。またそういうお店では種類ごとにパンの味が違って、実際にパンの特性の合わせ小麦や水までも変えているのです。まさにそれは作る人の「表現」であり「作品」であるのです。


 パンに限らずレベルが高い料理は味が個性的なのです。例えば同じ麻婆豆腐でも、レベルの高い中華料理店はそれぞれ味が個性的で違って驚かされます。逆に言えば、レベルの低い料理ほど味に個性がなくなり「標準化」されます。つまりそれは「思想の無さ」の現れでもあるのです。


 またハイレベルはお店は、料理の種類によって驚くほど味が違うのです。これに対してレベルの低いお店ほど、何を食べても同じ味がするのです。質の悪い食材は固有の味や香りや歯ごたえが抜け、無個性になるからだと考えられます。それと思想のある料理人は多様性を発揮し、思想がない人はおしなべて単調なことしかやらないのです。


 また料理の下手な人は、すべての食材を均質に混ぜ込んでしまい、結果として何を作っても同じ味になるのです。実は何を隠そう私自身がそうだったのですが、あるとき美味しい料理は食材ごとに分離して、それぞれの味が引き立つように作られていることに気付き、自分でも実践するようになったのです。


 とは言え私のやってることは単純で、炒め物をするときにはまず肉を炒めて、次にタマネギを入れてフライパンに蓋をして蒸し焼きにして、しばらくしてから青菜を入れて少し蒸して、食べる前にさっと混ぜるとそれぞれの素材が引き立ち美味しくなるのです。


 そもそも料理は家で作るの方が安くて美味しいのです。チェーン店は量産のためコストを削減し、どんな食材が使われているか分からず、運搬や保存のため様々な化学物質が添加されているのです。

 

 美味しい料理を簡単に作るには、出来るだけいい素材を選び、その素材の味を活かせば良いのです。実は最近、近所のスーパーの一角に「地元野菜コーナー」があるのに気付き、その野菜が普通に売られているものより良いのです。例えば青菜は小ぶりながら緑が濃く引き締まった感じで良いのです。


 これに対し普通にスーパーで売られている青菜は、どうも間延びして水っぽく、味な香りも薄く、どこかしら工業製品のような無機的で均質な印象を受けるのです。つまり野菜というのは植物でありながら人工物でもあり、つまり野菜にも作った人の精神が現れるのです。


 その意味では実家の母が家庭菜園で作った野菜が最も美味しく、段違いに味や香りも濃いのです。つまり小規模に丹精込めて作った野菜と、コストを考え大規模に量産した野菜とでは、そこに現れる精神や思想のあり方が違うのです。


 野菜で思い出しましたが、去年長野の小布施で食べた、地元で新開発されたという辛味大根が、驚異的に美味かったのです。そばと一緒に小ぶりの大根が一本出てきて自分でおろし金ですって、残った分の持ち帰り用ビニール袋まで用意される念の入りようで、まさに野菜も思想の表れと再認識したのです。


 母は家庭菜園で自然農法に凝ってましたが、そもそも野菜は自然物ではなく人工物で、長い年月を掛けて野生の植物を人工的に改良したものなのです。ですので野菜は反自然的な文明の産物なのです。すると自然農法とは何なのか?といえば自然農法ではない野菜の育て方を考えれば分かります。


 自然農法ではない野菜は、化学肥料や農薬をふんだんに使って効率的に育てられます。効率が優先されるかわりに味が落ちているのです。つまり化学肥料や農薬を使った野菜は、文明としての品質が劣化しているのです。自然農法による野菜は文明の産物で、化学肥料や農薬を使うのはその劣化形態なのです。


 近代文明はそれ以前の文明より様々な面で進歩しているようでいて、その実効率を優先するあまり様々な部分が劣化しており、農作物もそうだし、料理もまたそうなのです。現代的な外食産業の悪意に満ちた酷い料理は、人類史上かつてない酷さであると言えるのです。

 

 私には食べものの好き嫌いはないのですが、美味しいものなら食べものの種類にかかわらず何でも好きなのです。逆に言えば好き嫌いのある人は食べものの「種類」によってそれを嫌うのです。


 また自分はハンバーグが好きだとかカレーが好きだとか、食べものの種類による好みを言う人がいますが、私は食べものに関しては種類にこだわらず、それよりも美味しさのレベルそのものに反応してしまうのです。


 しかし、そもそも食べ物の美味しい不味いは、人それぞれの好みであって、客観的な基準は存在しないのではないか?と疑問を持つ人もいるだろうと思います。しかし彦坂尚嘉先生が勧めてくれた谷崎潤一郎の『文章読本』という本によれば、例えば利き酒をしてその良し悪しを判断すると、専門家同士ほどその意見が一致するというのです。逆に素人ほど「好み」によって意見が分かれるのです。


 つまり谷崎潤一郎が指摘するのは、味覚に限らず物事の良し悪しにはある程度の「規準」があり、規準を知る者同士では意見が一致し、規準を知らない者同士では意見が分かれるのです。


 そして物事の良し悪しの「規準」とは歴史的生成物であり、だからそれは「個人的好み」を超越した普遍性があるのです。そして私は幸いにも母の「教育」のお陰で、味覚に関してはそのような「規準」をいつの間にかある程度身に付けることができたのでした。

 

 さて、私は味覚そのものに興味があって、実は不味い食べものであっても、文句を言いながらその固有の不味さを味わおうとするのです。しかしその結果、先に述べたように不味い食べものはおしなべてどれも同じような味になり無個性であることが分かってきたのです。個性とは固有の思想であって、思想のない料理は無個性なのです。


 不味いものも含め味の追求をする私は、実は「食べ物でないもの」の味も追求したことがあったのです。正確に言えば「人間は食べないが他の動物が食べるもの」の味がどんなものか?確認しようとしたことがあったのです。


 私は科学的興味から昆虫や植物などの自然観察も行っているのですが、その一環として「味覚による自然観察」も実行していたのです。すなわち、例えば「人間は食べないけど鳥が食べる木の実」の味見をしてみるのです。もちろん人間の食べ物で無いものは毒の可能性がありますから、あくまで味見だけして飲み込むことはしません。


 例えばマサキの実は「少し渋みがありそれ以外味がない」のに対し、ハナミズキの実は「はじめはほのかに甘く感じられ、程なくして強烈な苦味が襲い、その苦味はかなり後まで尾を引く」と言う違いがあります。しかしどちらの実も赤く、この色は鳥に対し「食べられる実」というサインとして働いているのです。


 そのように、一見同じような色をした実の味が異なることも面白いし、人が好む実の味と鳥が好む実の味が異なることも面白いのです。またその「具体的な不味さの体験」も新鮮で面白い。しかしこの実験は舌に刺激物を与え負担をかけるから、一日に何度も行うことはできないのです。


 それにこの「味覚ネイチャー」の実験は、どういう分けか何度もやらないうちに飽きてしまい長続きしないのです。あらためて考えると、未加工の自然物は人間の精神の反映ではなく、また自然の摂理として人間の食べ物でないものは、その味が人間にとって何らかの「意味」として立ち現れてこないのです。人は意味構成しないものに対しては長続きせず飽きてしまうのです。

 

 私は味覚に関して好き嫌いは無いと書きましたが、実は子供のころからトロロイモだけは苦手でした。いや大人になって、そう言う好き嫌いは先入観に過ぎないはずだと思い、一時期はよくトロロを食べていたのです。すると初めのうちは美味しく食べていたのにだんだんつらくなってきたのです。


 トロロを食べ続けていると、そのうちどうも薬臭いような違和感が増すようになったのです。そしてついにお腹を壊してすっかり寝込んでしまったのです。つまり私がトロロが食べられないのは、好き嫌いではなく体質の問題だったのです。


 体質の問題と言えば、私は国分寺市に住んでいたころ裏の雑木林でハイイロシメジというキノコがたくさん生えているのを見つけて採ったことがありました。キノコ図鑑によるとハイイロシメジは「食用だが人によっては毒」とありました。しかし食い意地が張っていた私は、構わずホイル焼きで食べたのです。


 しばらく美味しく食べていたハイイロシメジでしたが、程なくしてやはり薬臭いような違和感が増して、ついに激しい下痢と嘔吐に襲われて、食べたものを全部体外に排出したのです。毒を出してしまってから体調は回復しましたが「体質」は好き嫌いを超えられないのです。


 キノコは実のところ自然観察の傍らたびたび収穫して食べていたのです。これは先に述べた「味覚ネイチャー」の実験とは異なり、あくまで食べ物としてのキノコを味わうのです。


 キノコは毒キノコの判別が素人には難しいと言われますが、実はキノコ図鑑を眺めていると、毒キノコと紛らわしい食用キノコとは別に、特徴的で間違えようがない食用キノコがあり、これを見つければ安全なのです。


 例えばタマゴタケは全体が赤くて根元に卵状のツボがあり、まず間違えようがなく、しかも私が食べた中ではもっとも美味しくて非常に濃いうま味ダシが出るのです。11月に生えるムラサキシメジも特徴的な紫色ですが、味はタマゴタケより落ちます。


 しかし気をつけなければならないのは、キノコ類の味や香りや毒成分には「意図がない」ということです。植物の場合、味の良い実は動物に食べてもらうという「意図」があり、不味かったり毒があるのは食べられたくないという「意図」があるのです。


先に例を挙げた人間にとって不味い木の実にも、味の分からない採りに丸呑みされることで種子が運ばれるという「意図」があり、不味い成分を果実に含むことによって、種子を噛み砕く哺乳類に食べられないようにする「意図」があるのです。


 ところが菌類の場合は、植物のような動物に対する「意図」が働いていないのです。ですからどんな毒キノコでも、美味しい味や香りがしてしまうのです。


 またキノコに含まれる毒も、例えば猛毒で有名なドクツルタケの場合は食べると肝臓が溶けてスポンジ状になり、またドクササコという毒キノコの場合は死ぬことはないけれど、手足の先に「やけ火鉢に突っ込んだような激痛」が起きそれが数ヶ月も続くなど、怖ろしいほど意味不明なのです。


 また以前、キチチタケというキノコだったと思うのですが、図鑑に「辛い」と書いてあり、試しに囓ったら確かに辛くて驚いたことがあるのですが、キノコの場合は何の脈絡もなく辛いからおもしろいのです。

 

 ともかくいくら自分には好き嫌いがないといっても、アレルギー体質だったり、毒が含まれているのものは食べられないのです。つまり好き嫌いとは本質的に精神ではなく身体の問題で、その意味では原始的な問題だと言えるのです。そして実際に人間以外の動物は基本的に好き嫌いが激しいのです。


 例えばモンシロチョウの幼虫は好き嫌いが激しくキャベツなどアブラナ科植物しか食べません。しかも実験して調べると、モンシロチョウの幼虫はキャベツに含まれる特定の化学物質「カラシ油配糖体」に反応し葉を食べるのです。


 試しにカラシ油配糖体を紙に塗ると、モンシロチョウの幼虫はその紙を食べるらしいですから、それだけ「味の好み」が単純で範囲が狭いのです。実はアブラナ科植物は、昆虫に葉を食べられないための防御策として、カラシ油配糖体を分泌するのです。

 

 アブラナ科植物のカラシ油配糖体は、虫が葉に付くことで分泌され、そしてその刺激性と毒性が虫除けになっているのです。ところがモンシロチョウの幼虫だけは、カラシ油配糖体を食べても平気な体質を獲得しているのです。


 実は多くの植物が、葉を虫に食べられないための化学物質をそれぞれ分泌するのです。しかしモンシロチョウの幼虫の場合は、カラシ油配糖体を分泌するアブラナ科植物だけは、その防御策を身に付けているのです。逆に言えばカラシ油配糖体を含んだ植物だけが、モンシロチョウにとって安全で、だからこの成分だけに反応して葉を食べるのです。

 

 人間は動物としては雑食性ですが、自然物を加工する技術を持つことによって、さらに食べられるものの範囲を広げてきたのです。「加工」というのは料理と農業技術です。本来硬くて食べられない植物も、煮たり焼いたりして柔らかくし、植物そのものも交配による品種改良でより柔らかい植物に変えるのです。

 

 料理とは何か?といえばひとつは「外部消化」です。例えばクモが獲物を噛んで注入する毒は、消化液を兼ねています。クモは獲物をそのように外部消化してから体内に取り入れるのです。人間も例えば肉を外部消化してハンバーグにしてから食べるのです。ポテトもプライドポテトに外部消化して食べるのです


 しかしもっと重要な料理の意味は、先に述べたように料理がそれを作った人の精神の反映であるならば、料理とは精神の交流であり対話であるのです。レベルの低い料理には精神性がなく、精神の交流も対話もなく、ただ動物的に腹を満たすための外部消化に過ぎないのです。
 


 そういえば私はだいぶ昔ですが、「昆虫食」も試してみたこともあったのです。当時の私には、毒があったり臭みがあったりしない限り、動物は何でも食用になるはずだ、という予想があり、その実証実験を試みたのです。


 そして林の木にツマグロオオヨコバイというセミを小さくしたような虫が沢山いたので、網で捕まえ、醤油で煮て佃煮にしてみたのです。すると結果としては意外に美味しく食べられたのですが、しかし量が少なく食用にするには効率が悪いと気付いたのです。


 実は昆虫は体が小さく、そのぶん体が軽く重力の影響が少なく、筋肉量が少なくて食べるところも少ないのです。それに対して同じ節足動物でもエビやカニは水の抵抗に打ち勝つだけの筋肉を備え、食べるところも多いのです。


 ところが最近のニュースでは、これからの時代の食糧難に備え、昆虫食が本格的に研究されているというのです。例えば食用コオロギですが、私の認識ではこれも食べるところは少なそうですが、しかし一方で昆虫は省スペースで大量に効率よく養殖することも可能で、人類の食料として充分な供給可能性を持っているのです。

 

 しかしコオロギなんて気持ち悪くて食べられないと、大半の人は思うでしょうが、しかしそう言う食べず嫌いは先入観に過ぎず大した根拠はないのです。日本では古くからイナゴや蚕の蛹を食べてきたのです。

 いやそういえば、私は学生時代、実家の長野からのお土産に「蚕の蛹の佃煮」を買ってきて、友達と一緒に食べたことがあったのです。するとその友人は後日「糸崎に殺され掛けた」とみんなに言いふらしたのですが、聞けば私のお土産の蚕を食べてしばらくして、呼吸困難に陥り本当に死にそうになったと言うことなのです。

 恐らく蚕の蛹に対するアレルギー反応が出たのかも知れませんが、蚕のサナギを食べたことがなかったその友人にとって、自分がそんなアレルギーを持っているとは、知る由もなかったのです。

 というわけで、こんな事ばかり書いているとキリがありませんので、このへんでひとまず終わることに致します。