前衛と野蛮

改めて納得したのですが戦後日本の「前衛芸術」は「前衛」の名の下に原始に回帰していて、「前衛」と「原始」が取り違えられているのです。この問題は私も無関係ではありません。

例えば、1960年代から1970年代初頭にかけて活動していた前衛パフォーマンスアート集団「ゼロ次元」が、全裸になったり儀式をするのは「前衛」を「原始」と取り違え、最先端のつもりで最後尾へと後退してるのです。

ゼロ次元のコンセプト「人間の行為をゼロに導く」のゼロは、約一万年と言われる文明発生以前の、数百万年も続いた原始状態に立ち返ることを意味していたのです。

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ダダカンも、前衛と原始が取り違えられているとすれば、納得できます。

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松澤宥(まつざわゆたか1922〜2006)も日本のコンセプチュアル・アーティストと言われますが、どうも釈然としないと思ったら、コンセプチュアルと呪術的とを取り違え、前衛のつもりで原始に回帰してるのです。

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岡本太郎も前衛と原始への回帰を取り違えていて、そのような取り違えを『今日の芸術』でも主張していたのでした。つまり多くの日本人もまた、原始への回帰に過ぎないものを前衛だと錯誤しているのです。

http://www.new-york-art.com/old/Tarou-sakuhin.php

戦後日本で芸術の「前衛」と「原始への回帰」が取り違えられたのはなぜなのでしょう?ひとつには「近代的なもの」が自明化したため、近代とは何かが自覚されないまま、非近代的なものとしての原始が、これまでに無い進歩のように錯誤されたのです。

もう一つが、実は近代における科学というもの自体に、原始への回帰という要素が含まれているのです。フッサールは科学者に対し「素朴だ」と批判していますが、そのように素朴な原始性が、近代文明を象徴する科学に逆説的に含まれているのです。

科学とは何か?といえば実は人々の原始的な欲望を満たすために科学は存在するのです。科学はその意味で呪術の延長なのです。

モーセの十戒で「神の名をみだりに唱えてはならない」とされていることの意味のひとつは「神に願い事をして神を使役してはならない」という戒めで、それをするのが呪術だとして否定されているのです。

ところが科学は、神に願うことを禁じられているような原始的な欲望を、神に変わって何でも叶えてくれるのです。科学によって人言が手にしたのは、より確実に願いが叶う呪術的な「呪文」です。

もちろん普通の意味で呪術と科学とは別物で、呪術を否定して科学が生まれたのですが、別な見方をすれば呪術の延長上に科学はあるのです。

宗教は人間の原始的欲望を否定しますが、科学は原始的欲望を肯定し、原始的欲望の肯定によって科学は進歩するのです。そのような科学の時代において、芸術の前衛が原始への回帰と取り違えられるのです。

科学技術はさまざまな「もの」を産み出しますが、それらの「もの」はことごとく人々の原始的欲望を刺激し、人々の増大した欲望によって科学はますます進歩するのです。

芸術は人間の原始的欲望を満たすものではないはずですが、芸術は人間の原始的な欲望を満たすものだと思っている人は、実に多いのです。多くの人が原始的欲望が満たされたことを芸術的感動と取り違えているのです。

近代では科学によって人間の原始的な欲望が肯定され、それで芸術の前衛と原始への回帰が取り違えられるのです。この取り違えを修正するには、自らに満たされ、また追い求めている原始的欲望が何であるかを認識する必要があります。