アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

非人称と反転

私が「私でないもの」を拝して仕えることは、岡本太郎が言うように前時代的で封建的で屈辱的でしかないのでしょうか?もし子供が「私」だけを信じ「私でないもの=親」仕えなければ、子供はどうして大人になれるでしょうか?

もしこの神殿が全ての障碍から、つまり自我性と無知とから自由になるならば、この神殿は造られざる神ただひとりの他は何ものも同じ輝きをもって出会うことのできないほどに、神の創造した全てのものを超えて、その全てを貫き、美しく輝き、純粋にして透明な光を放つのである#エックハルト 説教p17

岡本太郎はなぜ人々に自我の主張を勧めたのか?それは岡本太郎によると、古い封建時代では人々の自我は抑圧されていた。だから自我の主張こそが自由であるとしたのです。しかし自我の主張は結局他人の自我を抑圧し、そこからまた自由になるために自我の主張がなされ、そのようなループが生じているのです。

エックハルトによると、神が創りし神殿であるところの人間の魂に居座って障碍をもたらすものは「自我」です。自我は「私でないもの」を神殿から排除することで「無知」をもたらすのです。

「自我」が無知をもたらします。「自我」が番犬のように居座り、あらゆる「私でないもの」に対して吠えかかり、すべてを追い払うのです。そのようにして、岡本太郎が言うところの「純粋、素直な自分」を保つことができるのです。

「非人称芸術」の反転 ‼︎ つまり私が非人称化して「誰でもない誰か」になれば良いのです。そのようにして私は「私でないもの」に合一できるのです。

実に多くの人が「私」の固有性に固執するあまり、かえって「誰でもない誰か」と化しているのです。だからこそ自ら「私」の固有性を捨て去って、自ら積極的に「誰でもない誰か」になろうとする事が有効であるのです。