《現実界》と《象徴界》

現代人は物事を《現実界》に偏って捉えています。《現実界》は確かに偉大な力ではありますが万能ではなく物事の一側面でしかないのです。近代になり忘れられ軽んじられているのは《象徴界》です。近代になり《現実界》が出現する以前の《象徴界》には絶大なパワーがあり、これを想起することです。

そのようなわけで、私は『エックハルト説教集』岩波文庫を読みはじめました。エックハルトは人間の魂は神が造った神殿であり、聖書にある通りその中は空にしなければならないと説いていますが、それは岡本太郎が言う既製品のような「純粋な自分」の反対物で、岡本太郎は神殿に「純粋な自分」を居座らせているに過ぎないのです。

自分はなぜ存在するのか?には「《現実界》的な理由」と、「《象徴界》的な理由」とがあります。中島義道先生は「《現実界》的な理由」に固着して「象徴界的な理由」を見逃しているのうに見受けられます。「構造主義」は《象徴界》を《現実界》に還元する事で、その存在を対象化したと言えるかもしれません。

想像界》と《象徴界》。言葉のネットワークの「量」が少なければ想像界に止まり、ある閾値を超えてネットワークの量が多くなると《象徴界》が生じます。ですから《象徴界》は文明の産物であり、文字の産物なのです。文字の発明により言葉のネットワークは時間的に空間的にも飛躍的に拡大し、そこに《象徴界》が生じたのです。

無文字文化の血縁集団ネットワーク、口承による神話の段階は想像界に止まり、これを超えた文明段階の言語ネッワークから《象徴界》が生じます。つまり文明の中にあって、文明的言語ネットワークから疎外され、想像界に取り残されている人々が存在するのです。

象徴界》に接続しなければ、想像界に取り残される事になります。《現実界》に捉われると、《象徴界》を見逃す事になります。そしてエックハルトが説く「神殿を空にする」事によって、《象徴界》への接続が可能となるのです。

岡本太郎の芸術論も、中島義道生の哲学も、《象徴界》への接続を拒否し、その原始性への回帰を「新しさ」「真実」と錯誤しているのです。

神が驚くべき仕方で創造した見事な被造物すべてのうちでも、人間の魂ほど神に等しきものは何一つとしてない。だからこそ神はこの神殿を、神のほか何一つないように空にしておきたいと思うのである。 #エックハルト 説教集p12

キリスト自ら「私を離れてはあなた方は何もできない」(ヨハネ一五・五)と語ったように、彼らは彼ら自身のものから捧げるのでもなく、彼ら自身によって働くのでもない。#エックハルト 説教集p14

光と闇とは両立しえない。神は自ら真理であり光である。だから神がこの神殿に入る時は、そこから無知を、つまり闇を追い払い、光と真理とをもって自分自身を顕すのである。

神は自分自身のものを決して求めない。すべてのわざにあって神は縛られず自由であり、真の愛から働くのである。神とひとつとなった人間もまたまったく同じようになすのである。#エックハルト 説教集p14 

その人は自分のすべてのわざにあって縛られず自由であり、ただ神の栄光のためにのみ働き自分のものを決して求めることがない。つまり神が彼の内で働いているのである。#エックハルト 説教集p14

聞きなさい、神と神の栄光の他に何者にも自分自身にさえも目を留めない人こそ、全てのわざにおいて真に自由な人であり、いかなる商人的あり方にも縛られず、自分のものを求める事もない人なのである。#エックハルト 説教集p15 

神が自らなすすべてのわざにも縛られず、自由であり、自分のものを求めることを決してしないのと同じである。#エックハルト 説教集p15

人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。#マタイ 4:3

人がパンだけで生きるとは動物的な《現実界》としての側面で、これに対し我々は日本語を読み書きし、日本語は外国語と互換性があり、聖書の言葉も日本語に翻訳されるのです。

イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。#マタイ 4:6

例えば、水を火にかけると本当に沸騰するのかどうか?を疑って試みる者は愚か者です。人は何によって疑い試みるのでしょうか?

するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。#マタイ 4:9

サタンとは何でしょう?一つ言えるのは、「私」が神でないのは明らかで、つまり「私でないもの」が神であり、私は「私ではないもの」を拝し、これに仕えるのです。

私は「私」を拝して仕えるべきか?それとも私は「私でないもの」を拝して仕えるべきか?「私は「私」を拝して仕えるべきだ」というのが岡本太郎の主張であり、「私が芸術だと思ったものが芸術だ」とはこれを意味しているのです。

私が信じる「私」には神に等しい力が備わり、「私」が触れたものはみな金に変わるのです。「私が芸術だと思ったものが芸術だ」とはそのようなことを意味しています。