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物質と言語

「分かる」と「分かったつもり」の違いはなんでしょう?

人は「鮮明な今」と「曖昧な記憶」の中を生きています。すなわち「鮮明な今」の鮮明さは「曖昧な記憶」によって裏付けられているのです。いやもしかして、鮮明なのは「言語」だけなのではないでしょうか?言語だけが鮮明だとすれば、それ以外の全ては曖昧です。

何であれ、物事の本質は「言語」ではないでしょうか?

言語とは何か?その昔自分が考えて、しかし考えがまとまらなかったことを再考してみます。若い頃の直感は、全くの的外れなこともある反面、案外核心を突いていたりもして、当事者としてはなかなか判断できないものなのです。

ソシュールの、言語にはシニフィアン(記号表現)と、シニフィエ(意味内容)の二つの側面があるという指摘は、私にとっても衝撃でした。これを私は橋爪大三郎さんの本で知ったのです。

記号表現と意味内容。何もないところから何かが生まれることはないとすれば、人が話す言語は何から生まれたのか?とその昔の私は考えて、そもそも生物の身体そのものが言語ではないのか?と思ったのです。

例えばミミズの身体それ自体に、記号表現と意味内容の側面があると捉えられないでしょうか。ミミズ身体、袋状の皮膚に内臓や筋肉が詰まった構造物が記号表現となり、ミミズの意味内容、すなわちミミズが生きることを実現させているのです。

言語には切断の機能がありますが、生物の身体はそれ以外から切断されているのです。その意味であらゆる生物が固有の言語を持っていると言えます。つまりミミズにはミミズに固有の言語があり、それはミミズに固有の身体そのものであるのです。

いや生物だけでなく、あらゆる物体が「個物」である限り、それは他のものから分節化されたシニフィアン(記号表現)だと言えないでしょうか?例えば道端に転がる石ころそれ自体が記号表現と意味内容を持つ言語ではないのでしょうか?

ここには一つ転倒の試みがあるのですが、言語は本来的には実体ではなく、記号表現も意味内容も現実の存在物ではないとされています。しかし私はそれを転倒させて、言語とは現実に存在する事物であるとしてみたいのです。

つまり現象学的に考えると「現実」の存在を措定できず、だから「言語は実体ではない」として「実体」と対置させるその構図そのものが、現象学的にナンセンスなのです。

つまり、例えば私が道端で石ころを拾って手に持った、その現実存在の石ころに「石ころ」という非実体的な概念としての言語を当てはめる、という図式は現象学的には間違っているのです。

そうではなく、私が手に持っているその石ころそのものが「言語」であり、つまり「石ころ」という言語は「素朴な感覚で現実と思えるもの」の側にあって、つまり認識とその対象物、すなわち言語とそれが指示する対象物は「現象」という不可分な一つのものなのではないでしょうか?

現象学とは還元主義です。現実に存在する物体と、人間の脳が生み出す観念とが、「現象」の名の下に還元され同一化されるのです。道端で拾った石ころは、その手で触った感触や重みそのものがシニフィアンであり、そこには殺伐とした意味内容がダイレクトに「実体」として「存在」しているのです。

現象学的に見るならば、現実世界と概念世界の垣根は取り払われるのです。「言語」と「言語が指し示すもの」は別カテゴリー人間の属するのではなく、共に「現象」という同一カテゴリーに属しており、その意味で分離せずに一体のものであるのです。

人間だけが言語を使うのではなくて、言語は普遍的なものであって、人間が使う言語にはその他の言語とは異なる固有性がある、という事なのではないでしょうか?

石ころが「言語」だとすれば、それは自ら成長することも増殖することもなく、外部からの作用がない限り不動です。しかし生物そのものもまた「言語」だとすれば、それは自ら成長し、増殖し、さまざまな言語(生物個体)が絡み合って分脈(生態系)を形成します。

生物そのものが「言語」であるなら、「人が話す言語」もまた生物であり、つまり人が話す「言語」は「生物としての人間の身体=言語」に寄生していると言えます。つまり「人が話す言語」は生物が織りなす生態系という分脈の上に乗っかる形で、「人が話す言語」としての分脈を形成しているのです。

ヨハネによる福音書の冒頭は何を意味しているのか?

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

人はものに言語を当てはめるのではなく、ものそのものが言語であるのです。「水」と「湯」の違いは何でしょうか?どこまで温度が上がるの「水」から「湯」に変わるのか?その境は曖昧です。これを教科書的には世界は連続しており、言語にはそれを分節する働きがあるといいます。

しかし、どこまで温度が上がると自らお湯になるのか?とは言語の翻訳の問題ではないでしょうか?もともと「水」という物質自体が特有のシニフィアンを有する言語であり、それに温度のシニフィアンが加わるか加わらないかによって「水」や「湯」の言葉に翻訳してるのです。

ちなみに水を英語に翻訳するとWaterですが、湯を英訳するとHot waterとなるのです。これも教科書的には、連続した現実世界を、それぞれの言語体系がそれぞれに恣意的な区切り目によって分節する、とされています。

しかし言語以前のあらゆる物体が言語だとすれば、世界はあらかじめ言語として分節化され、それをそれぞれの言語体系が翻訳して、言語として言い当てているのだと言えるのです。もちろん現象学的には「世界」の存在は素朴に措定できません。

現象学的に見れば「世界」は実在ではなく、あたかも「世界」が実在しているかのように「現象」しているのです。そのように「現象」を「現象」として観察した場合、果たして言語で分節化される以前の連続した世界を措定することに、どんな意味があるのでしょうか?

現象学的に見れば「もの」とは現象であり、「言語」もまた現象です。そして「もの」とは「言語」として現象しているのであり、実のところそれ以外の現象の仕方をしていないのではないでしょうか?

普通の意味で言語とはまず音声として存在しています。人間には発音器官と、発音を受け取る耳が備わっています。音声とは空気振動で、空気を媒体として人から人へ伝えることができます。五感で認識する世界の複雑さを、音声の複雑さに置き換えたものが音声言語だと言えます。

音声を発することのないイカは、体表を覆う収縮自在な色素細胞を使って、視覚情報によってコミュニケーションを図ります。イカの体表は言わばテレビモニターのようなもので、その情報をキャッチするカメラ(眼)もまたイカは備えているのです。

人間にもイカと同様の「眼」が備わっていますが、人の皮膚にはイカのように色や模様を自在に変化させる機能はなく、その意味でコミュニケーション手段としては役立っていません。ところが人は顔の表情を変化させ、それでコミュニケーションを図る機能を有しています。

また、人はさまざまな衣服を身につけることによって、それによって身分や儀礼などを表し、視覚的なコミュニケーションを図ります。それはつまりその全てが「言語」なのであり、イカの視覚コミュニケーションも「言語」だとは言えないでしょうか?

なぜ文字が出現してそれが使用可能になったのかを考える必要があります。人類史800万年と言われますが、文字の使用はせいぜい1万年以前からなのです。つまり本来の人類の機能には、音声言語の使用はあっても文字の使用は含まれていなかったのです。このことは何を意味するのでしょうか?

音声言語は文字に置き換えることが可能だったのです。置き換えとは翻訳です。そして異なる体系の音声言語も、互いに翻訳が可能なのです。そして音声言語とは、そもそもが「世界」の翻訳であるのです。と言うことは、「世界」そのものが言語であり言語体系として現象しているのではないでしょうか?

私の考えは非常に荒削りで素朴な間違いに陥っている可能性大ですが、あまり気にせず取りあえず書いてゆきます。

教科書的には言語にはシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(意味内容)の両側面があります。そして私は言語以外の「もの」にもシニフィアンシニフィエの両側面があるのでは?と思ったのです。

そしてものには、自然物と、生物と、人工物の、3種類があり、それぞれにシニフィアンシニフィエのあり方が異なるのではないかと思うのです。

「世界」はものであふれていますが、ものには自然物と、生物と、人工物の三種類があります。歴史的に人がものを作るようになる以前は自然物と生物しか存在せず、生物の発生以前には自然物だけが存在していたのでした。そして宇宙規模で見るならば世界の大部分にものは存在せず真空であるのです。

目に見える何ものも、自明には存在しないのです。目に見えるあらゆる「もの」は「自然物」「生物」「人工物」のいずれかに分類されるのです。そしてそれぞれに歴史があり、そして時間の流れ方が異なっているのです。

あるいは生物の発生が言語の発生なのでしょうか?生物と非生物的物質とでは、決定的な差異があります。物質の起源は不明ですが、生物の起源の不明性は、物質の起源の不明性と全く次元を異にしているのです。「意味」というものを考えると生物には意味があり非生物は無意味ではないでしょうか?

意味とは何でしょうか?例えば「犬」という言葉は犬という動物を指し示しているから意味があると言えます。そして「犬」という言葉は日本語という言語体系に組み込まれ配置されているからこそ「意味がある」と言えるのです。

すると、例えばミミズそのものが言語だとすれば、ミミズは何を意味しているのでしょうか?一つはミミズは生態系というシステムに組み込まれており、その意味で「意味がある」と言えるのです。

しかし「ミミズ」という人間の言語が「生物としてのミミズ」を指し示すような意味が、「生物としてのミミズ」そのものに備わっているのでしょうか?生物として飲み水、存在としてのミミズは、「人間の言語」のようにミミズそれ自体とは異なるものを指し示すような「意味」を持っているのでしょうか?

そもそも、人間の言語が対象物を指し示す、とはどのような「意味」なのでしょうか?「ミミズ」という言葉が、言語システムに位置づけられることで「意味」を持ちうることが可能なのは、そもそも「生物としてのミミズ」が生態系に位置づけられており、そのことの「意味」に「言葉の意味」が乗っかっているだけではないのでしょうか?

つまり、人間の言語のシステム以前に、生態系のシステムが存在しているのです。そして人間の言語はここの自然物を指し示すことによって、生態系のシステムに乗って、言語のシステムを成立させているのではないでしょうか?

と言うわけで、大昔に考えたことを再び掘り返してみたのですが、思考としてはやはりあんまり上手く行かなかったかも知れません。落ち着いて、もっといろいろ勉強する必要があります。

結局のところ、少ない素材で考えを深めようとすることに無理があるのです。少ない素材でもそれを補う感覚によって思索が深められると考えるのは、法然由来の日本的大乗仏教の系譜に過ぎないのです。

やはり現象学の基本をマスターするのが先決です。しかし図書館で借りた『イデーン』が思った以上に難しいのです。