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空間と時間

西田幾多郎によると、そしてフッサールによると、認識の「外部世界」を措定すること自体が間違いなのです。私は目で外部世界を見て認識し、その私は外部世界の中に存在する、という認識自体が自然で素朴な錯誤に過ぎないのです。

「空間」も「時間」もその存在を我々は自明なものとして受け入れていますが、それは本当に「実在」するのでしょうか?空間と時間のあり方は我々にとっては同質ではなく、空間は手段があればどこにでも移動できますが、時間は逆戻りができません。

私が隣の部屋から移動すると、私がさっきまでいた「隣の部屋」は、現在も隣に存在しており、私はいつでもまた「隣の部屋」に移動することができます。ところが「私がさっき隣の部屋にいた」という「過去の時間」は現在には存在せず、私はその過去の時間に戻ることができないのです。

我々は非常に辻褄の合わない世界に世界に生きているにもかかわらず、あらゆる事柄が辻褄があったように錯覚しながら生きているのです。時間と空間の関係も、冷静に考え直せば全く辻褄が合わないにも関わらず、さも辻褄があったように自明化しているのです。

私はさっきいた隣の部屋に戻ることはできますが「さっきまで隣の部屋にいた時間」に戻ることはできません。しかしそうでしょうか?実は私は「今」という時において「さっきまで隣の部屋にいた時間」を想起しその時間に戻ることができるのです。

実に不思議なことですが「今」という一瞬の中には、実に過去から未来まであらゆる時間が同時に含まれているのです。私は今iPhoneを手にしてTweetしてますが、私が今見ているiPhoneは過去に繰り返し見ている自分のiPhoneで、そのような沢山の過去が一瞬の「今」に含まれている。

今この瞬間の「私」という自己認識のうちに、私の生い立ちからこれまでのあらゆる過去の時間が含まれています。同時に私はこれから何をしてどうなるのかという未来の様々な時間が「私」という一瞬の自己認識に含まれているのです。

そして「私」という自己認識は、「他者」を含む「世界」を認識することによって生じるのであり、一瞬の他者認識、世界認識のうちに他者について、世界について、過去から未来へのあらゆる時間が含まれているのです。

私は今は外出先にいますが、私の家は藤沢市に存在しています。私の家という場所や物は現実に存在し、だから私はこれから自宅へ戻ることが可能です。しかし「今」という時において、私の自宅は「いつものルートで戻ればそこに存在するはずだ」という未来予測としての時間として存在しているのです。

ニューヨークにはまだ行ったことはないですが、ニューヨークという場所はファンタジーではなく現実に存在します。その証拠に私がニューヨークに行こうと思えば実際に行けるのです。しかし「私がニューヨークに行ってその存在を確かめる」ことは未来の可能性としての時間として存在しているのです。

「今」という一瞬の認識は、過去の記憶と、未来の予測により成り立っています。過去の記憶がなければ、自分が今見たものが何であるかが理解できず、従って認識できません。また我々は過去の記憶を未来へ折り返すことで、今認識したものがこれからも存在し続けることを予測的に確証するのです。

「今」とは過去であり、同時に未来でもあります。人は過去を振り返ると同時に未来を予測しながら「今」を認識します。そして時間は空間とも一体であり、今自分がいるこの場所以外の場所は、過去の時間か未来の時間のいずれかに属しているのです。

私は今、外出先から自宅へ向かうところですが、この「今」という時において私の自宅は目の前に存在せず、それは「自宅を出る前は自宅があった」という過去の記憶と「自宅に着けば自宅があるはずだ」という未来予測の時間の中だけに存在するのです。

理屈から何かを推測することは間違っています。いや、理屈から推測したことを「事実」と取り違えることは間違っています。そして我々はそのような理屈による推測を常に行いながら、それを「事実」と取り違えています。実に我々が認識する事実だと思っている大半は、そのような取り違えに過ぎないのです。われわれは「時間」について多くの理屈に囚われているのです。