アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

生活世界と真実

プラトーは有名なる『共和国』において人心の組織を国家の組織と同一視し、理性に統御せられた状態が国家においても個人においても最上の善といっている。#西田幾多郎 善の研究

「世界は矛盾に満ちている」という言い方がありますが、我々はどこまで辻褄の合った世界に生きているのでしょうか?我々の日常は通常あらゆる事柄に辻褄が合っていて、その隙間から矛盾が垣間見えているのでしょうか?

それとも、世界の存在、自分の存在そのものが理不尽で、ことごとく何の辻褄も合っていないにも関わらず、さも辻褄が合って意味があるような「物語」を形成し、それを信じているに過ぎないのでしょうか?

例えば自分の足元には固い地面が確固としてあって、自分はその両足で確実に立っているつもりでいますが、その地面というものも、実は物語であり幻想に過ぎないのでしょうか?

非常に不思議なのは、フッサールの言う「生活世界」が確固たるものとして現存しているように思えてならないことです。「生活世界」は、どのように存在するのでしょうか?

「生活世界」が物語であり幻影に過ぎないのだとすれば、物騒な例えで申し訳ないのですが、なぜ自分は通りすがりの人に突然殴りかかったりしないのでしょうか?私はそんなことをするのが単に無意味でなく、他人に対し非常に迷惑で自分に損な事だと疑いなく思っていますが、それはなぜなのでしょうか?

犯罪を犯せば警察に捕まり罰を受けるのが真実です。真実とは「生活世界」にあるのでしょうか?確かに少なくとも一つの真実は「生活世界」にあるように思えてなりません。疾走する車に飛び込めば死ぬか大怪我をするのは確実ですが、これが疑う余地のない真実として私の精神世界に現象しているのです。

だから「生活世界」は一つの疑いようのない真実であり、そのようなあり方の真実が、私の精神世界に現象しているのです。そのように真実を現象に還元することで、私は真実というものに対し、距離を置いて関係することができるのです。

「生活世界」を物語であるとか幻想であることを理由に否定することはできません。いや、犯罪者や精神異常者に完全に成りきるのであれば、それは可能のようにも思えます。しかしそうしたところで犯罪者として、あるいは精神異常者としての生活世界に回収されるにすぎません。

もし「生活世界」から完全に逃れようとして「生活世界」を完全に否定して「完全なる精神異常者」に徹するならば、それは不断にクリエイティブでなければならず、それをするのは精神異常者の領域では無理なのです。実際に精神病患者は一般人よりクリエイティビティを喪失し類型化するのです。

「生活世界」から逃亡する方法はクリエイティブであること以外にはあり得ません。人間にとっての創造性とは、つまりは新しい環境への適応です。常に新たな環境を開拓しその適応を試みることが不断の創造性だと言えるのです。それをしない人は自明の生活世界に絡め取られ、その環境に幽閉されるのです。

確固たる真実である「生活世界」を否定することはできません。しかしこの「確固たる真実」そのものが、私の精神世界に生じる「現象」である事を、少なくともクリエイティビティを負う人は、あらゆる手段を使って認識しようとしなければなりません。