アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

断念と理想

善の研究』で西田幾多郎は、善とは理想の実現である、と説いていますが、しかし多くの人は様々な理由で理想をあきらめ、理想そのものを忘れ去っているのです。プラトンの想起説によれば人間は様々な事柄を忘却しているのであり、自分は何を理想としていたかを想起する必要があるのです。

人はなぜ理想をあきらめてしまうのでしょうか?一つは「面倒臭い」という思いです。理想を実現することは実に面倒臭く、ですから多くの人は理想をあきらめて楽に生きることを選ぶのです。

面倒臭いことを避け、楽をして生きることが人間としての理想であると言えるのでしょうか?面倒臭いことを避ける人は、自らの理想を面倒臭さのためにあきらめているのであり、その断念の思いが心の底にヘドロとなって沈殿しているのです。理想の断念はヘドロの中の安寧となるのです。

実に、よくよく注意して反省しなければ、自分が本来的に何を理想としていたのか、それを明らかにするのは難しいのです。それほどまでに人は深いレベルで自分の理想を忘却し切って、諦めの安寧の中を生きているのです。それは人間の動物としての要求で、そのため人間としての要求が断念されているのです