アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

距離と羨望

遅ればせながら『アナと雪の女王』をDVDで見て特にLet it go!の開放感に感動したのですが(笑)子どもの優れた能力を、世間体を気にした親が抑圧するのは良くあることです。自分の子供のみならず、一般に人は人の優れた能力を理解せず、それを否定し抑圧しようとします。

例えば真に新しいアートは多くの人に理解できないからこそ「新しい」のであり、だから真に新しいアートは人々から否定され抑圧されるのです。真に優れたアーティストは孤独な能力を持て余しますが、その孤独は同時代的なものに過ぎません。

人は歴史的に優れたものは評価できても、同時代的に優れたものを認識し評価することはなかなかできないでいます。もっと言えば人は身近な人の優れた面をなかなか評価できない。それは一つには「羨望」の問題であり、羨望の対象は遠くに存在しなければならないからです。

アナと雪の女王』では、強力な超能力を有する女王エルサを「魔女だ!」と決めつけこれを殺害しようとする侯爵が出てきますが、これも「羨望」のあらわれの一つです。自身の身近で優れた能力を発揮する人間は、自分の立場を脅かす忌み嫌うべき存在でしかないのです。

「羨望」の感情は、優れたものそれ自体を決して否定しているわけではありませんが、それは自分より遠いところにあるべきであって、決して身近な存在であってはならないのです。身近に存在する「優れたもの」は自分自身を脅かす、殲滅すべき敵でしかないのです。

なぜそうなのか?と言えば、身近に優れた人がいれば、その事が「自分が優れていない」事の証になるからです。そしてその優れた相手が、自分に対しより劣っていることを、常に責めている様に感じられるからです。

しかし羨望を持つ人は、世の中にも歴史上にも自分より優れた人間がいくらでも存在することは認めており、そのこと自体で思い悩んでいるわけではないのです。ならば何故、自分の身近に優れた人間が存在する時のみ、負の感情が生じるのでしょうか?

つまり羨望を持つ人は、身近に優れた人がいた場合、その人が劣った存在である自分を責めている様に感じ取るのです。即ち実際には「相手が自分を責めている」と勘違いした自分が、その様な形で自分自身を責めているのです。

実に、羨望の感情を持つ人は、身近に優れた人間が存在する事を望まないだけでなく、自分自身が優れた人間であることを望まないのです。それは西田幾多郎の言葉「宗教的要求は自己に対する要求である」に通じているのですが、羨望を持つ人は自己に対し優れた人間であろうと要求しないのです。

自己に対して大きな要求をすればする程、自分はその要求に応えるべく努力しなければならず、それで多くの人は自己に対する要求をごく控えめに抑えているのです。多くの人は努力し鍛錬することを避け、できるだけ楽をしたいと思っており、自己に対する要求をできる限り低く抑えているのです。

つまりこの映画『アナと雪の女王』のように親が子の能力を恥じて抑えつけるだけでなく、実際には多くの人が自分自身の能力の高さを恥じてこれを抑え付けているのです。

これが羨望の作用の一つで、他人に羨望を持つ人は、自分自身が何かそのような「高み」に達し得るとは思いもよらず、それで羨望の感情を持つのですが、実際には自分で自分の能力を過小評価し、自分で自分の可能性を押さえつけているに過ぎないのです。

羨望を持つ人は自分自身がある「高み」に達し得ることが思いもよらず、実際にその可能性があるにも関わらず、自分で自分の可能性を押し潰すのです。

人が何か「高み」に達することは何も難しい事ではなく、一般に高みへと上昇するにはただ階段を昇れば良いだけの話で、基本的に誰にでもできることなのです。