アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

理論とコピー

私は学生時代に自分の才能の無さをとことん思い知って、オリジナリティを追いかけることを放棄して、模倣に徹することにしたのです。しかしどう言うわけか、私が模倣をするとエラーが生じて別のものが出来上がり、それがいい塩梅に自分のオリジナリティになるのでした。

では何故、私の模倣にはエラーが生じてしまうのか?一つの仮説は、私は何かを模倣するにあたって、その何かを成立するための「理論」を考え、その理論に基づいて模倣しようとするのですが、それがエラーの元なのです。

つまり私が模倣をしようとするアーティストの多くが理論などほとんど考えてなく、感覚的なイメージにより作品を作っているのです。イメージをイメージでコピーすれば日本語の「複写」になりますが、イメージを理論化すると理論は自律的に展開しますから、それによって元のイメージからズレるのです。

私はひところ「誤解による創造性」を主張していました。つまり私の「フォトモ」や「昆虫ツギラマ」などの作品は、先人の模倣のつもりで生じた誤解の産物で、そのように私は自身のオリジナリティを確立する事が出来るようになったのです。

誤解とは何か?と言えば、それに先立ち「理解しようとする意思」があるのであり、それがなければ理解も誤解も生じ得ないのです。これに対し「理解せずにコピーする」と言う態度があるのです。表面的なコピーには劣化はあっても、根本的な誤解を生じ違うものに変貌するという飛躍はありません。

誤解と無理解とは違います。コピー機は原稿の内容に対し無理解で、だから誤解することなく精巧なコピーを行うことができるのです。一方でオリジナル原稿は、それが作者の理論によって書かれた場合、その理論の展開によって次々に書き換えられ変容していきます。

しかし理論のないコピーには、理論によって変化する以前のオリジナル原稿がそのままの形で、残されるのです。つまり理論のないコピーの連鎖によって、オリジナル原稿の表面性が継承されながら保存されるのです。

少なくとも現代の日本人アーティストの大半が理論を考えてはいない。いや実際に理論を唱えていたとしても、それはイメージとしての理論に過ぎず、だから理論としての展開力は持たないのです。

ここで私自身の欠点も明らかになるのですが、私は「自分の分かる範囲」においては理論構築しているのですが、それが全てに亘っている訳ではなく不十分であったのです。

その意味で私は錯誤していたのですが「反-反写真」という私の手法は、「写真」を撮る写真家たちが押し並べて理論構築せず、ただ己の感性に基づいて数を撮りまくる、という方法論を「真似た」表現なのですが、結局のところそれ自体は錯誤でしかなかったのです。

正しくは、多くの日本の写真家が撮っているいわゆる「写真」を自分自身が原理として捉え直し再構築しなければならなかった。それが美術の表現においてまともな追求の仕方なのです。

そもそも「理論か感覚か」という二項対立が間違いであって、理論が無ければ感覚それ自体が作動しないのです。ですので理論を無視して感覚だけで突っ走る若者は必ず行き詰まるのだし、理屈だけで頭でっかちの人は、その理屈の捉え方そのものが感性的で間違っているのです。