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芸術とキノコ

人はなぜ芸術を錯誤するのか?と言えば、まず「芸術」とはその人が理解する以前に、客観的に現象している。例えば「ネコ」と言うものは、その人が「ネコとはこう言うもの」と勝手に思い込む以前に、客観として現象している。人が認識するとは、客観的にすでに現象するものを認識するのである。

人が芸術というものを認識するには、まず客観として現象する芸術なるものを認識しなければならない。この場合、人は芸術の全貌を一挙に認識できない。なぜなら芸術は常に個別の作品として現象し、その意味で部分として、断片としてしか現象し得ないからである。

しかし多くの人は、芸術の一部を見てそれを芸術の全体と錯誤して認識する。芸術の部分はそれぞれが異なっているから、芸術の一部を芸術の全体と錯誤した人々の芸術は、お互いにその内容、定義が異なっている。

岡本太郎は『今日の芸術』において「芸術とはこういうもの」と断言しているが、断言するのは断片を全体と錯誤しているからで、それ故に間違っている。これに対し母の岡本かの子は『愚かなる母⁈の散文詩』において教養に対する欲望を訴えている。

つまり母かの子は「芸術とは何か?」は教養で認識するものと捉えているのに対し、息子太郎は「芸術とは何か?」は素人の感性によって認識できるとしている。

しかし素人の感性によっては、例えばチョウとガの区別は容易にはつかない。チョウにも地味な羽の種類はいるし、ガにも鮮やかな翅を持つ種類がいるからだ。昆虫についての教養がある人は、翅の模様に惑わされず、チョウとガを区別できる

あるいはまた、素人の感性では食用キノコと毒キノコの区別ができない。私はキノコについて多少教養があり、自分が知る範囲の食用キノコと毒キノコの判別はできる。その教養はキノコ図鑑と実物を見比べ味見することを繰り返して身につけたものだ。

つまり、岡本太郎の『今日の芸術』を間に受ける人は、毒キノコを喰らっているのである。