アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

非人称芸術と共産主義

坂口安吾堕落論』『続堕落論』、短いエッセイなので青空文庫で読んでみたが、岡本太郎の芸術論とも、椹木野衣の「戦後リセット論」とも共通点があり、その両方のベースとなったと思わせるものがある。

堕落論』とは一種の原理論で、その原理を人間の原始性に据えている点において、岡本太郎と共通している。なぜ原始的なものを人間の原理に据えたのかといえば、敗戦があったからである。

ところで、私が提唱した「非人称芸術」とは、共産主義であった。私の言う「非人称」とは共産主義を指していた。いや、私は共産主義なんて意識したことはなかったし、私が物心ついた時代は全共闘運動も終わっていたし、自分は左翼とは無関係に生きてきたつもりだった。

しかしだからこそ、自分は無自覚のうちに共産主義思想という行動プログラムに感染し、無自覚のうちに自ら「非人称芸術」と言う形の共産主義を生み出したのである。これは全く動物的思考であり、なぜなら動物は自らの行動プログラム=本能を対象化できないからである。

だから自らの認識や思考を律していた行動プログラムであるところの共産主義を対象化して来なかった私自身は、その意味で動物的だったと反省しなければならない。

そのものを対象化するとは、そのものを学ぶことであり、私は最近になって、遅ればせながらフランス革命に起源を持つ共産主義について学んだのだが、その結果として、自分自身が無自覚的に共産主義思想を身に付け「非人称芸術」というかたちでの共産主義を見出したのだった。

共産主義とは一つには「価値の均質化」と「価値の底上げ」とを同時に行なっている。つまり例えば飢餓状態においてはどんな食べ物も美味しくありがたく頂くことができる。どんな食べ物も美味しいのだから価値が均質化され、どんな食べ物も最高に美味しいのだかは価値が底上げされている。

フランス革命由来の共産主義の人間観とは、そのように価値が均質化されると同時に底上げされ、それは「非人称芸術」においても全くもって同様なのである。しかし私の共産主義は無自覚であるがゆえに一方では不徹底で、私は人間の平等を全く信じていなかった。

私の共産主義思想は、無自覚的にいつの間にか染み付いたもので、それゆえに断片化し不徹底だったのであるが、断片化されているがゆえに、一方である範囲において共産主義が徹底化され、それが「非人称芸術」となったのである。

私はいわゆる左翼であったことはなかったし、左翼的な悪平等や理想主義をむしろ嫌悪していたのであるが、それだけに人には明瞭に能力差があって、決して平等ではあり得ないことを知っており、そして自分自身も決して優れた人間ではないことを知っていた。

私は自身の才能の無さに絶望した挙句に、赤瀬川源平超芸術トマソン」を通じて、究極的な芸術的共産主義としての「非人称芸術」を見出し、それにすがったのだ。つまり非人称芸術とは私のルサンチマンの産物だったとも言えるのだ。

私が不徹底であったのは、「非人称芸術」のコンセプトによって、「アーティストが製作した作品=人称芸術」を否定しながら、一方で「フォトモ」というかたちでも作品制作をしてしまった点にある。

私としては「非人称芸術」が主であり、「フォトモ」はその記録媒体であり副産物に過ぎないと捉えていたが、実際にはそうしたものではなかったらしい。

取り敢えず言えることは、「非人称芸術」には共産主義的な「序列の無効性」とそれに伴う「価値の底上げ」が存在したが、「フォトモ」には作品としての出来不出来が明瞭に存在し、つまり「序列」が存在し、その意味で共産主義的ではないと言えるのだ。