アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

オルテガの『大衆の反逆』

オルテガの『大衆の反逆』を再読しているが、「社会」とはそもそも「貴族的なもの」であり、「貴族」とは社会に対して能動的に関わろうとする人を指す。対して「大衆」とは社会に対して受動的に関わろうとするのであり、だから常に責任を回避しようとし、歴史に参与しようともせず、できるだけ隠れて無名でいようとする。

オルテガによると、貴族的な人間は自ら進んで困難を引き受けこれに立ち向かうとされるが、困難とはそもそも社会的、公共的なものであり、たとえ個人の身に降りかかるだけの困難に打ち勝ったとしても、それは社会性とは無縁な「動物的な生命力」に過ぎない。

美術に関して言えば、美術に対し能動的なアーティストと、美術に対し受動的なアーティストがいる。美術に対し受動的なアーティストとは、美術というもの自体を「自明なもの」として捉え、その固定的な概念に受動的にぶらさがっているのである。

また、日本の写真家の多くは「写真」と言うものを自明的に捉え、「自明の写真」に対し受動的に接している。

そのものを「自明のもの」として捉えて行うのは、ひとつには「お稽古事」であり「趣味」である。例えば「写真」と言うものを「自明の写真」として捉えるならそれは「趣味の写真」であり、そのような意識によって一般向けの写真教室やフォトコンテストは成り立っている。

オルテガによると、思考するには相応の手続きを踏む必要あるとされるが、思考するとはそもそも社会的な行為であり、だから手続きが必要となるのである。手続きのない思考は思考にならず、何も生み出さない。何かを生み出す、と言うこと自体が社会的なこと以外意味していないからである。

大衆社会においては「趣味」の領域が拡大している。近代的な技術の発達のおかげで、大衆が趣味を楽しむことが可能になった。例えばチューブ入り絵の具の出現によって、大衆が趣味で絵を描くことが可能になり、カメラの簡便化によって写真を趣味とする人の数が膨大に増えた。

一方で、趣味で建築を作る人や、趣味で映画を作る人の数は、現代においても極端に少ない。いくらDIY店が増えたり、映像機器が安く簡便になったとしても、実用的な建築や長編映画を一般の人が趣味で作ることは難しい。これらを作る大半の人は趣味ではなくプロフェッショナルで、金儲けのためにやっている。金儲けとは何かと言えば「社会性」を意味している。

金儲けを考えていない個人の趣味は、社会性を考えておらず、それだけ簡単なことだからこそ趣味として楽しむことができる。社会性を持たせることは、趣味とは異なる分だけ困難なのである。

一方で「商業主義」という言葉が批判的に使われ、「純粋芸術」という言葉と対置される。しかしそもそも、本来的な芸術は「社会的なもの」を意味しているのであり、その場合の「社会」とは同時代的、同地域的な社会を超えた、人類が築き上げた美術史に参与することを意味するのであり、その中で「芸術の社会性としての商業性」も捉えるべきなのである。

人は誰でも不可避的に歴史的産物なのであるが、その人が「自然的態度」で生きている限り、自らの歴史性が見えてくることはない。自らの歴史性を明らかにするには「手続き」が必要であり、それは「社会的手続き」なのである。

オルテガによると、大衆の思考は自閉的で自足的であり「手続き」無しで結論だけが存在する。してみれば私の「非人称芸術」もどのような手続きによってその概念が導かれたのかを検証しなければならない。

「文明の中の原始人」が、文明の中のあらゆる分野の主導権を得ている、とオルテガは書いている。原始人は文明の産物を使いこなすことに長けていて、一方で文明の原理、すなわち文明そのものには無関心なのである。

近代文明は、文明のシステムに適応する多数の原始人を生み出した。それはあらゆる野生生物が、都市環境に適応して生きているのと同様である。野生生物が自分が生息する環境の原理に無関心であるのと同様、文明の中の原始人は文明の産物の裏に隠された原理に目を向けようとはしない。

原理的に言えば、精神分析は貴族的な人間にしか治療効果がなく、それが欠点である。大衆は物事の表面性、直接性のみに捉われて、その裏に隠された「原理」を見ようとしない。そしてそのような「原理」に目を向けることで治療効果をもたらすのが、他ならぬ精神分析なのである。

いや、オルテガによれば人間社会は本質的に貴族的であり、社会性が失われるほど貴族性から遠ざかる。だから非貴族的であるが故に自らの精神的「原理」に目を向けることが出来ず、それ故に精神分析による治療が不可能であるような状態は、それ自体が精神的病理なのだと言える。

オルテガによれば貴族的な人間は常に自分の正しさを疑って自身が無く、それ故に常に自らを高めようとする。これに対して大衆は自分の正しさに絶対の自信を持っていて、何者をも確認する必要が無いと信じている。

大衆は少数者に従わず、多数者に従う。大衆にとって少数者の意見はそれだけで疑わしいものだと認識され、多数の人間が同一の意見を持っていることが正しさの指標であると認識し、自分もその意見に流される。つまり「数」が判断の基準となり、内容の吟味は省略される。

現代社会において「基本的人権」というものは誰もが生まれながらにして与えられるものであり、特殊な才能や個人の努力によって勝ち得たものでは無い。そのような「価値の底上げ」が現代社会においてなされている。

結局のところ「血統による貴族」が真の意味で貴族的ではないのと同様、現代社会的な「生まれながらの権利」に安住し満足する者は大衆なのである。