アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

大衆と『野生の少年』

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フランソワ・トリフュオー監督『野生の少年』を観ましたが、大変な名画でした。実に、現代を生きる多くの人は「野生の少年」であって、自らの中に「野生の少年」を発見した者だけが、彼に対する「教育」を試みることができるのです。

実にこの「野生の少年」とは私自身であったのです。文明を離れ野生の中で一人で育った少年は、幼い時期に人として学ばなければならなかったことを学びそびれ、成長してからそれを教えようと思ってももはや理解することができず、私の絶望も全く同様であるのです。

「野生の少年」が孤独であったように、大衆は本質的に孤独です。オルテガが指摘したように大衆は孤独に考えて、孤独な結論を導き出します。そして私の「非人称芸術」もそのような孤独な結論に過ぎなかったのです。私は孤独の中で孤独な結論に達し、それ以外の「外部」を理解する能を失ってしまった。実に「野生の少年」と同じです。

『野生の少年』は自分を見つめ直すにはいい映画です。多くの人は現代文明の中に育っていても、あらゆる文明の産物を自明的に捉え、つまり自然物のように捉えていて、「野生の少年」と同様に文明から隔絶され孤独に生きているのです。

「認識範囲の狭い人」はその意味で孤独です。しかし認識範囲が狭い人は、それ故に自分が孤独であることが認識できず、本人は満足しているのです。

「認識範囲の狭い人」にとって、認識範囲を広げようとする事は、非常な苦痛を伴います。この事も『野生の少年』で如実に描かれていました。人にとって慣れ親しんだものの呪縛は大きいのです。人は自由を縛るものに対し自ら縛られることを好み、自由を拒否するのです。

認識範囲を広げるのはなぜ苦痛なのか?それは、一つには『野生の少年』を見ればわかる通り「適齢期」を過ぎてしまったからです。人は生まれてしばらくは好奇心旺盛で、そうでなければ人は「人」になる事は出来ません。しかし一旦「人」として出来上がってしまうと、それ以上の好奇心が働かなくなります。

好奇心が無くなった段階の「人」は何をするのか?と言えば、同じことの繰り返しをするのです。「野生の少年」自身にとっての「世界」は単純で、同じことの繰り返しです。実に我々大衆も、自分が落ち着く同じ場所で、毎日死ぬまで同じことを繰り返し、それで満足するのです。

一方で、大衆は飽きっぽいとも言われます。しかし改めて考えてみるならば、我々大衆は何かに飽きたからといって、今まで自分が全く興味を持たなかった領域に、好奇心を拡げることはありません。我々大衆が望んでいるのは同じもののバリエーション展開であり、全く別の新しいものではないのです。

我々大衆にとって、同じもののバリエーション展開ほど心地よいものはありません。全く同じものは空きますが、同じようでいて少しずつ細部が異なるものに、我々は深い満足を得ます。それは自分が身に付けたか決まられた範囲の認識力で、十分に認識出来るからです。

大衆にとって、無制限の自由はかえって苦痛で、不安にさせます。我々が求めるのは「制限された範囲内での自由」です。大衆が望むのは、自分が身に付けたごく限られた範囲内での自由を最大限に行使することです。自由の拡大は「自分の範囲の自由」をスポイルすることになり、かえって苦痛なのです。

結局のところ、我々大衆は回し車のハムスターのように、同じところをグルグルとひたすら回っているのが好きなのです。映画『野生の少年』において、少年(ヴィクトール)を不憫に思ったイタール博士は、彼をなんとか「回り車」の中から救出しようとし、様々な教育を試みますが、それは少年にとってことごとく苦痛でしかないのです。

トリフュオー監督『野生の少年』は聖書、特に旧約聖書の内容とも重なります。聖書においてユダヤの民は何度も神様の言いつけに背き、その度に厳しい罰を受けますが、心を頑なにした人々は、どれだけ罰を受けようとも懲りずに同じ過ちを繰り返します。『野生の少年』はそのような民の象徴でもあります。

旧約聖書に書かれた人びとに限らず、多くの人は昔から現代に至るまで、頑なで自分の認識範囲を広げようとしません。それはむしろ、人間にとってのごく自然な性質であると言えるのです。しかし聖書の神様は、なぜそのような人間の自然性に対し、激しくお怒りになるのでしょうか?それは映画『野生の少年』を見ればわかる通り、認識範囲の広い人にとって、認識範囲の狭い人は「不憫」であり、どうにかしてその状態から救い出したくなるのです。

トリフュオー監督自らが演じるイタール博士にとって、言葉も知らず、人間的な何もかもを知らない「野生の少年」が不憫でならないのです。だから博士は少年が嫌がっているにもかかわらず、博士自身も非常な苦労をしながら、様々なことを教えようと試みるのです。

「認識範囲が広い人」にとって、「認識範囲の狭い人」は不憫に思えますが、「認識範囲の狭い人」は実に自分が認識できる範囲の世界に満足し切っていて、そこに「不均衡」による断絶があり、それが『野生の少年』にも『旧約聖書』にも現れていると言えます。