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言語と物

哲学・科学・宗教

「言語」と「言語でないもの」が区別されないのであれば、「物」とは即ち「言語」であり、「物」は「言語」の特徴を備えていなければならない。

人間を含む生物の身体も「物」であるが、生物の身体は「言語」であると以前に直感したことがあったのだが、「言語」と「言語でないもの」が区別されないのであれば、その直感は正しかったことになる。

なぜ人間だけが「言語」を使うことが出来るのかと言えば、実は人間以外の動物も「言語」を使うからであり、そもそも生物の存在自体が言語であり、物の存在自体が言語だからである。

あらゆる生物は「エサ」と「エサでないもの」を区別して認識する。即ち少なくとも「エサ」となるものを、その個別性を超えた「類」として認識する。あらゆる物は唯一無二の個別として存在するが、それと同時に「類」として「同じもの」が多数存在する。

物が「個別」ではなく「類」として存在するから、生物にとっての「エサ」が存在しうる。つまりあらゆる生物は個体の唯一性、個別性を超えた「類」として存在するが、それに先立ってエサとなる物が「類」として存在しているのである。

物質が元素によって構成されていると言うことは、物質の存在は本質的に個別性を超えた「類」であることを示している。

本来的にあらゆる「物」は唯一無二の個別性であるにも関わらず、人間の言語機能はそれらを無理矢理に類型化して認識するのではなく、あらゆる物は元素の構成物であり、あらゆる生物は遺伝子の生成物であり、個別を超えた類的存在であり、だからこそ言語と対応しているのであり、それ自体が言語なのである。

「言語」は「物」に対応しているのではなく、物は即ち言語であり、「物=言語」が「物=言語」に対応しているのである。例えば「猫という物」は「猫という類」として「虎」と対応しているし、「動物という類」として「ナメクジ」と対応している。

科学的な「分類学」が成立するのは、分類学が扱うさまざまな物それ自体が言語だからである。「言語ではないもの」に「言語」を当てはめて分類学を成立させているのではなく、物それ自体が即ち言語であるから、そのような物としての言語に、分類学としての言語を対応させることが出来るのである。

言葉というものは、例えばこのテキストの文字の形が記号表現となり意味を形成する。同じ言葉を声に出して読めば、その声の音が記号表現となり意味を形成する。すると例えば道ばたの石ころは、記号表現としてどのような意味を形成するのか?

 

アフォーダンス理論によると、知性は生物の側にではなく、環境に存在する。と言うことは、意味はそのものから意味を読み取る生物の側にあるのではなく、物そのものに意味が含まれている。石ころはそれ自体が記号表現として、石ころとしての意味内容を表しているのである。

アフォーダンス理論によると、大地はそれ自体があらゆる生物にとって意味があり、大地という物そのものに意味が含まれている。しかし生物が存在しない月面であるとか、生物が生じる以前の地球の大地に意味が存在すると言えるのか?

しかし人類が月に降り立ったとき、月の大地は地球の大地と同じように意味を生じ、そのお陰で人間は月面に立ち、歩くことが出来たのである。即ち「意味」というもの自体が、生物の発生に先立って宇宙そのものに存在しているのである。

あらゆる物が精神現象なのであれば、月面の大地も精神現象として存在する。そして改めて確認してみるならば、月面の大地は私の精神世界に精神現象として確かに現象している。

キルケゴールによれば人間とは精神であり、精神とは関係への関係であり、従って「月面の大地」という精神現象も、関係への関係として私の精神世界に現象している。

認識可能な全てが精神現象であるなら、全ての精神現象は言語なのである。全てが言語でないとしたら、どのようにして言語が他のものに置き換え可能なのか?「他のもの」もまた言語であるからこそ、それが言語に置き換えられるのである。

シマウマは「草」を「食物」に置き換え、ライオンは「シマウマ」を「食物」に置き換え、そのような言語としての「置換」を行なっている。人間はライオンを「ライオン」という狭義の言語に置換し、食物を「食物」という狭義の言語に置換するが、それは生物が普遍的に行う「置換」と本質的に同じである。

あらゆる生物は代謝しているのであり、代謝とは置換であり、置換とは言語活動なのである。言語の「意味」とは「置換」であり、「意味」の正体とは「置換」なのである。

例えば「リンゴ」が「食物」に置換できるなら、そのリンゴは食物としての意味を持つ。ある作品が「芸術」に置換できるならその作品は芸術としての意味を持ち、その作品が「芸術」と置換できないないのであれば、プラスチックでできたリンゴが「食物」でないように、その作品は芸術ではないのである。

一つの言語は様々な言語に置換可能で、そのような言語ネットワークによって言語活動が生じている。例えばリンゴの実は動物の食物に置換され、実に含まれる種子は新たなリンゴの木へと置換される。木から落ちるリンゴの実に当たって小動物が死ねば、リンゴの実は災難に置換される。

言語の意味が置換であるなら貨幣とは言語に他ならず、生物が養分を摂取すること自体も置換であり言語活動に他ならない。

生物が言語だとして、生物発生以前の無機物は言語なのか?と言えば、それらも言語なのであり、そうでなければ言語としての生物は生じ得ず、人間が使う狭義の言語も生じ得ない。何もないところから何も生じ得ず、「はじめに言葉があった」のである。

無機物ので存在はそれ自体がどういうわけか「法則」によって支配され、あらゆる無機物は限られた種類の元素によって構成され、「言語」としての特徴を備えている。しかしこれは順番が逆であり、物体の法則が人間の言語の法則に置換されているのであり、言語の法則は物体の法則に起源を持っている。

あらゆる物理現象は「普遍の法則」として現象している。普遍の法則としての物理現象がなければ、人間が使う言語の法則も生じ得ず、人間の言語の法則の起源は、物理現象の普遍の法則にあるのである。

概念の抽象度が上がるほど理解するのは難しい。理解とは置換可能ということであり、概念の抽象度が上がるほど置換が難しいのである。

例えばモンシロチョウの幼虫はアブラナ科植物に含まれる「辛子油配糖体」という化学物質を食物として認識=置換する。多種多様なものを食べる雑食性の動物ほど、「食物」の概念の抽象度が上がり、何が食物として認識=置換できるかの判断が難しくなる。

言語には「狭義の言語」と「広義の言語」があるが、その区別は便宜的なものでしかなく「はじめに言葉があった」と言う新約聖書の記述通りに「全て」は原初の言語より分岐発展した言語として現象している。