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物質と精神

哲学・科学・宗教

作品とは精神の物質化ではなく、精神そのものである。そもそも精神とは非物質的なものではなく、物質であろうと非物質であろうとそれは「見掛け」の問題でしかなく、精神は精神でしかなく、作品は精神そのものなのである。

作品が失われると、精神が失われる。私は正月2日に小布施の北斎館で北斎の作品に見入っていたが、それは北斎の精神そのものであり、もちその貴重な作品が失われることがあれば、それは作品としての北斎の精神が失われることなのである。

私はさっき、長野の善光寺の名店「つち茂」のおやきと、権堂アーケードの古びたお店「ちとせや」でおばあさんが一人で売ってるおやきとを食べてみたのだが、「つち茂」が圧倒的に美味しく、「ちとせや」はハッキリ言って美味しくない。この違いは実に「精神の違い」なのである。

食べ物の美味しさの差がレシピにあると考えるのは瑣末に囚われているからで、人の作る食べ物は作った人の精神そのものであり、その点は「作品」と同じである。「ちとせや」のおばあさんは人柄的には嫌いではないし、店も古びてこじんまりとし、庶民的な佇まいでその意味で味わい深い。

しかし、ちとせやのおやきはぞんざいな味付けで、焼き方もぞんざいで、そのようなぞんざいな精神が明瞭に味に現れている。そのようなぞんざいな商売をするおばあさんの人柄自体は私は嫌いではないし、ほのぼのしていいと思うのだが、味としてはハッキリとぞんざいでまずいのである。

一方で「つち茂」は善光寺の境内に店を構えいかにも観光客相手の店といった感じで、その意味で特に面白みはないが、しかしそのおやきの味には「精神の高さ」が現れている。結局、人の作る料理の美味しさは「精神の高さ」であり「志しの高さ」であり、食べる人はそれを味わうのである。

人の作る食べ物が精神なら、人が作る作品も精神で、それは精神の現れではなく、精神そのものであり、そのような精神とは具体物なのである。なぜならある人が料理をすることによって料理としての精神が生じ、作品を作ることによって作品としての精神が生じ、作らなければ作ったものとしての精神もない。

人が亡くなればその人の精神は消えてしまう。しかし亡くなった人の遺品が残されれば、遺品としてのその人の精神は残される。しかし遺品が処分されると、遺品としての精神も消えて無くなってしまう。

人の精神には強度の違いがあり、弱い精神は淘汰され、強い精神は人の年齢を超えて何代にも渡って生き続ける。

立派な事であると思って励む贖罪の行いや、見せ掛けだけの修練を積んで、かえって利己的な我に囚われているような一連の人達がいる。このような人達は、神の真理については何も知る事がない事を、神よ憐れみたまえ。これらの人達は外見からは聖者と呼ばれるが、しかし内から見るならば愚かなロバである。#エックハルト

エックハルトが説くように、デザインとは本質ではなく外見の問題である。なんら本質を捉える事なく、外見を整えることがデザインである。同じようにブッダも苦行者を批判したが、これも本質を欠いたデザインである事を批判したのである。デザインとは見た目の美しさで、現代は見た目の時代である。

デザインとは一つには「苦行」であり、苦行を他人にもそして自分にも見せ付ける事である。例えば、やたらと手間をかけて作られた作品は、その「手間」によって人々を魅了し、作者自身もそのことに満足するが、実にそれは「苦行」であり本質を欠いたデザインである事を疑わなければならない。

現代の大衆社会、高度消費社会は外見重視の「デザインの時代」でもあるが、しかしブッダの時代のインドも様々な苦行者が現れた「デザインの時代」であり、それにブッダは異を唱えたのである。

また、結局のところソクラテスもキリストもエックハルトも、デザインを重視する人々によって、デザイン=体面を脅かす者として処刑されたのである。

「所有に囚われない」とはどういう事か?所有とは一つには物質的所有であり、物質に囚われない事が「所有に囚われない」事だと考えられるが、しかし人が作ったものは物質であると同時に、作った人の精神そのものなのである。

だから「所有に囚われない」事を物質に囚われず非物質的な精神を重んずる事と解釈するのは間違いであり、精神とはそもそも物質としても現象している。だから物質と非物質を区別するのは「見た目」に囚われているに過ぎない。

つまり「所有に囚われる人」は物質と非物質の「見た目の違い」に騙されて、この両者を区別している。「所有に囚われない人」は物質と非物質の見た目の違いに惑わされず、どちらも「精神」と見て、それによって囚われる事がない。

人が存在しなくては存在し得なかったもの、すなわち全ての人工物は等しく人間の「精神」そのものであり、その意味で我々は人々の精神に囲まれた精神世界に生きている。