アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

「今」について

自分は死なないと思っている者は時間を無駄にする。自分はやがて死ぬことは確実であり、しかしいつ死ぬかはわからない、と知っている者は時間を無駄にしない。しかしこの「時間」とは非常に不思議なものであり「時間の無駄」と言うのもどういう事なのかも非常に難しい。

「時間の無駄」とは現象学的には「時間を無駄にした」という自分の主観的思いが現象している。自分は「今」時間を無駄にしており、それは過去からの継続であり、未来へと継続するであろうと推測される。そこで自分は「時間を無駄にした」とつくづく思うのである。

ところが自分は「今」だけを認識できるのであり、過去も未来も「今」ではない以上、直接認識はできない。人間にとって「今」は「今」はでしかなく、人間は過去や未来に行けない以上、いつでも「今」でしかない。

「今」というその時には「過去」と「未来」が同時にくっついている。過去の記憶と未来への予測が「今」という認識を成り立たせている。しかし、「今」この瞬間と、「今」の直前との連続性は、果たして本当に連続していると認識できていると言えるのか?

「今」という瞬間は直後に「過去」となり、別の新しい「今」に成り代わってしまう。その「今の直前の過去」と「今」が連続して繋がっているように主観的に思えるとしても、それが本当に連続しているのかどうか、どうやって確認できるのか?

実に人は「今」と「今の直前の過去」が不連続で無関係であったとしても、その事を原理的に認識できないのである。テレビのチャンネルを変えるように、自分の人生が次の瞬間に別の人間の人生に成り代わっていたとしても「自分」はそれを原理的に認識できない。

なぜなら「今」には「固有の過去」と「固有の未来予測」とがワンセットになっているからである。この「今のワンセット」が直後に全く別種の「今のワンセット」に不連続的に接続されたとしても、その事を「自分」は全く認識することは出来ないのである。

つまり人は「今」という時間に閉じ込められていている。「今」という時間は「固有の過去」と「固有の未来予測」によって人間の時間認識を遮り、人をその内に閉じ込めるのである。

例えばもし1秒ごとに「自分」から別の「自分」へと意識が次々に入れ替わり、つまり1秒ごとに「自分の今」から「他人の今」へと意識が次々に入れ替わったとしても、「自分」はその事に全く気づくことができない。だとしたら「今」この時で問題になるのは「決定」ということになる。

はじめに戻ると「時間を無駄にした」という事実は「時間を無駄にした」と気付いた「今」この時のみに生じているのであり、さらには「時間の無駄」に気付いて何をどう「決定」するのかという「今」において、「時間の無駄」というそのこと自体が生じるのである。

人間にとって時間とは「今」だけしか経験することができない。この「今」には「固有の過去」と「固有の未来予測」が含まれる。だから人は例えば言葉や音楽が理解できる。「今」が「今」という瞬間でしかないならば、言葉や音楽は認識として成立し得ず、理解することはできない。

人間は「今」しか経験できず、「今」だけがリアルに存在し、「今」だけが全てなのである。すると「今」何を決定するのかという「決定」だけが問題になる。例えば今の私のように時間についての考察を深めることも、その実体は「考察を深めよう」というその「決定」にある。

自然的な感覚では、考察は継続的に行うものであり、決定は瞬間的になされるものである。しかし考察における「継続」とは、それ自体が「今」という「瞬間」に「固有の過去」として含まれているのである。

従って考察を深めるとは、考察を継続することではなく、考察の継続を中断せずに継続することを「この瞬間に決定する」ことを意味している。

人間は「今」だけしか直接認識できず、従って時間の継続性そのものを直接認識することはできない。従って何事かを「継続する」とは正確には、「継続してきた事をこのまま継続しよう」という「決定」を「今」という瞬間において行うことを意味している。

人間の精神活動は「現象」に対する「決定」に還元される。人は絶対的に唯一の「今」という瞬間において「決定」を迫られている存在だということができる。

例えば足裏に画鋲が刺さると瞬間的に「痛い!」と感じる。この「痛い!」と感じるそのこと自体は、何ら主体的な「決定」ではなく、それ自体は「現象」である。「痛い!」と感じた瞬間は「痛い!」という感覚に意識が集約され、何らの「決定」もなされない。

しかし以上のことも、考察を深めることを決定する「今」において現象している「固有の過去」なのであり、それが「瞬間的な痛みの記憶」として認識されるのである。

想起とは、ソクラテスの指摘通り、それ自体が思考の形式なのである。人が過去を想起している時、それが本当に過去を想起しているのかどうか、「本当」には確認できない。しかし人は「想起」という「形式」によって思考する。その思考は「今」という瞬間に「思考しよう」と決定されるのである。

私は今、「決定」について考えながら書こうと決定し書いているのだが、書こうと決定した時点と、こうして実際に書き進めている最中の今とでは、「決定」の性質や種類そのものに変化はあるのだろうか?

そのように私は書きながら、書く内容そのものを私が「決定」していると言えるのか?実に言葉の性質上「意味」を形成する言葉はワンセットで連なっているのであり、そのワンセットを絵の具のチューブを絞り出すように私は「今」という瞬間に決定していると言えるかもしれない。

いや、意味は鉱脈のようにあらかじめ外部に埋め込まれていて、それを言葉の連なりによって掘り出そうと言うことを、自分が「今」という瞬間に決定している、と言うように現象している。

「痛い!」と感じた瞬間、意識はその痛みに集中し、その痛みが過去からの継続の痛みなのか、そうでないのかと言う認識すらその瞬間にはなく、つまり過去から未来予測へのレイヤー構造が無くなり、純粋な「今」だけが認識されている。しかし正確には「痛い!」と言う瞬間は、その痛みが襲った瞬間ではなく、その直後の「さっきは痛かった」と言う時点での「今」に付随する固有の過去として認識される。