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個人知と集合知

「レアリスム宣言」

ギュスターヴ・クールベ
1855年

「私は古今の巨匠達を模倣しようともなぞろうとも思わない。「芸術のための芸術」を目指すつもりもない。私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考えていたのは、そのための知識を得る事、私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事、つまり「生きている芸術(アール・ヴィヴァン)」を作り上げる事、これこそが私の目的である。」

http://ogi.cbc-net.com/?eid=55

 

改めて確認するとクールベの「レアリズム宣言」は1855年で、同じフランス人ダゲールが世界初の実用写真術ダゲレオタイプを1839年に発表した16年後なのである。

そして、同時代の1954年にはナダールがパリで写真スタジオを開設しているが、当時の写真術は湿板へと進化し、パリのいたるところに写真館が開設され、肖像写真を撮ってもらうことがブームになっていた。

そのように写真術が一般化しつつある時代にクールベは「レアリズム宣言」を行い、ルネサンス以来の伝統的な写実絵画によって、過去の巨匠の模倣ではなく「私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事」を目指すと述べている。

クールベは伝統的な写実絵画によって非伝統的なモチーフを描く事によって前衛的であろうとしたが、その前衛性はフランス革命以後にもたらされた社会変動によってもたらされている。つまりまず社会変動が生じ、それによって芸術家がその変動の前衛へと立たされる事になったのである。

 

自動色付け写真について,糸崎さんのご意見を伺いたいと思っていました.

 
@hwtnv @togetter_jp スゴイですね!そうした技術があるのは知ってましたが、アニメにも使われているのですね…そう言えば「神奈川県立近代美術館」のフォトモを作った際、坂倉準三とコルビュジエのモノクロ写真をフォトショップで着色し、人物パーツにしたことがありました。
 

はい.ここで試せるんです,ぜひ

 

@hwtnv @togetter_jp モノクロの自動着色に限らず、最近フォトショップをCSからCCに変えたら驚くほど自動化が進んでいて、何にせよ少なくとも職人仕事はどんどん自動化されるという事を実感しました。

私は銀塩写真のプリントの切り貼りでフォトモを作ってきましたが、フォトショップを使うようになってわかったのは、これは人ができる作業をコンピュータに置き換えているにすぎない、という事でした。

実際に私は例えば写真の中の人物を、周囲の画像によって補完して消去したり、建物のパースを矯正したり、フォトショップが登場する以前から行なっていたのです。しかし私が培ったその手作業の技術は、フォトショップを使うようになって無効になりました。

職人仕事は機械に置き換えることができる、というのが産業革命であり、写真術もその一環で、パソコンの普及でさらにその領域が拡大し、モノクロ写真の自動着色もその一環だと思います。

ありがとうございます.コンピュータが大量のデータから学んだ色彩が付いているところが非人称的だと感じ,糸崎さんの仕事と重ねて考えていました.

@hwtnv @togetter_jp 私の仕事をきちんと把握していただいてありがとうございます。しかし私は非人称芸術を提唱しながら、フロイトの無意識については何も知らなかったに等しく、この点は大いに反省してるます。その後フロイトも読んで、ラカンも少し齧ってだいぶマシになりました

最初に掴みでつけたキーワードが意外と奥深かったりするものですよね.僕も,デジタルアーカイブがこんなに奥深いとは...

@hwtnv @togetter_jp デジタルアーカイブとかビックデータとか、人間の無意識の機能の、外在化だと思います。もともと無意識とは個人的なものではなく、集合的なものだとフロイトは述べています。

コンピュータのあり方が我々の子供時代からすっかり変わりました。昔のSFで構想された巨大コンピュータは、今思えば「個人知」の理想化で、しかし現在のコンピュータは「集合知」の側面を露わにした、と見ることが出来ます。

然りですね!

@hwtnv @togetter_jp 人間の知性はもともと「集合知」であったのに、特に近代になってそれが「個人知」のように誤解されてきた。天才信仰は個人知の理想化で、コンピュータもそのように想定されていた。

しかし小さな個人用コンピュータがネットワークに多数接続されると「集合知」の側面が露わになった。パソコンとネットの出現で、人間の知性がそもそも「集合知」であったことが、客観的に見直せるようになったのです。

デカルトに始まる理性主義は個人主義で「個人知」でしたが、フロイトの無意識、ソシュール言語学レヴィ=ストロース構造主義ギブソンアフォーダンス理論などは「集合知」を問題とし、現在のコンピュータネットワーク出現と深く関連してると思います。

私の「非人称芸術」も、不勉強ながらそうした時代の風潮を感じ取った結果だと言えます。私自身、「個人の才能」に行き詰まりを感じて、「個人知」を我流で乗り越えようとしたのです。

いまだとコンピュータのネットワークがそこを補ってくれそうですね.僕も人工知能による自動色付けに出会ったとき「これだ」と思ったのです.まだ「作品」にはなっていませんが.

@hwtnv @togetter_jp 思えばセカンドライフがコケたのは、考えが古くて「個人知」ベースだったからかも知れません。やたら大掛かりな仕掛けで、私の当時のパソコンではスペックが足りずログインも出来ませんでしたから(笑)

なつかしいですね 笑 糸崎さんとの出会いがそれでした.

@hwtnv @togetter_jp また一緒になんかやりましょう!

はいぜひ!

 

クールベの話だったが、芸術のあり方は社会のあり方と連動し、社会が変化すれば芸術も変化する。イギリス発祥の産業革命と、フランス革命によって社会が変化すれば、芸術もまた変化する。

近代とはそれまでの社会に比較して格段に変化のスピードが速い社会であり、社会の変化とは人間にとっての環境変化であり、近代によって人間は絶えざる環境変化へと突き進む事になり、そこで「前衛」の概念が生じ、芸術家もそうした前衛へと追い立てられ、そこでクールベはレアリスム宣言をした、と言えるかも知れない。

クールベのレアリスム宣言は、伝統的な写実絵画で画家は何を描写すべきか?を問うたのでありその理念は間違いなく「写真」へと引き継がれている。

クールベのように「私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事」を目指す写真家は多いはずだが、しかしクールベはその前に「私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考えていたのは、そのための知識を得る事」と述べている。

つまりクールベは単に「私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事」だけを宣言してるのではなく、それが芸術として可能となる条件までを含めて、それを述べているのである。

クールベはまた「私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった」とも述べているが、この部分だけ見れば岡本太郎も同様の主張をしている。しかし岡本太郎はそれが可能となる方法として「ありのままの自分をさらけ出せ」と説くのに対し、クールベは「私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考えていたのは、そのための知識を得る事」だと述べている。

これは岡本太郎の「伝統も知識もいらない」という主張の正反対なのである。つまりクールベは「私自身の個性という合理的で自由な感覚」を「獲得すべきもの」と捉えていたのに対し、岡本太郎の場合は同じものを「生得的なもの」と捉えており、そこに違いがある。

岡本太郎の主張はポピュリズム=大衆迎合主義であり、それで敗戦後日本の美術界のみならず、社会に大きな影響を与えたのである・

クールベに倣うなら写真家はルネサンス以来の伝統的な写実技法によって「私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事」を目指し、それを可能とする為に「伝統を熟知」し「知識を得る事」をしなければならない。何の知識もなくシャッターを押してもクールベの言う「生きた芸術」にならないのである。

クールベが「芸術を生み出すには伝統を踏まえ知識を得ることが必要だ」と考えるのは、芸術を生み出すのが「集合知」だと捉えているからだと言うことができる。それに対し岡本太郎は芸術を生得的な「個人知」だと捉えている。

集合知」とは何か?と言えば、「言語」を持たない人間以外の生物は「集合知」を持たない。例えば鳥は巣を作るがそれは生得的な「個人知」によるもので、創造性もなく発展性もなく没個性的なのである。

人間の持つ生得的な「個人知」とは何かと言えば、精密な人体の構成そのものが、そうなのである。しかしそのような「個人知」は、誰もがほぼ同じものを持っていて、岡本太郎が言うような個性や創造性とは結び付かないのである。