アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

人間と罪

自分がどれだけの偉業を成そうとも、自分が偉いわけではないのと同様、自分がどれだけの罪を犯そうとも、自分が悪いわけではない。

自分がどれだけの偉業を成そうとも、それが自分のおかげではないのと同様、自分がどれだけの罪を犯そうとも、それは自分のせいではない。

人は誰でも自分のせいではない原罪を負わされている。

人は誰でも理由なく祝福され、理由なく罪を負わされている。

あなたに価値があるのには理由がなく、あなたに罪があるのにも理由がない。

人には誰にでも生きる値する価値があるように、人には誰にでも生きるに値しない罪がある。

自分がどれだけ良いことをしても「自分のおかげ」だと思い上がってはならないのと同様、自分がどれだけ悪いことをしても「自分のせい」だと思い上がってはならない。

人は自分のせいではない罪を犯しその報いを受ける。

あらゆる自画自賛が無意味であるように、あらゆる他人を褒め讃えることは無意味である。あらゆる自分の罪を責めることが無意味であるように、あらゆる他人の罪を責めることは無意味なのである。

もし神の御業というものがあるのだとすれば、全てが神の御業であり、人がどれだけ善いことをしてもそれは神の御業であり、人がどれだけ悪をなしてもそれは神の御業であり、誰も褒める必要もなく、誰も責める必要もなく、ただ神の御業を讃え恐れるのみである。

もし神の御業と言うものがあるのなら、人が善をなしたならばその人を讃えるのではなく、神を讃えなければならず、人が悪をなしたならばその人を責めるのではなく、神を恐れなければならない。

なぜ旧約聖書の神はそれほどまでに恐ろしいのかと言えば、世界というのはそれほどまでに恐ろしく、人間とはそれほどまでに愚かで罪深いものなのである。つまり人間が愚かで罪深いことは神の恐ろしさの現れであり、愚かで罪深い人に対してこれを責めてはならず、神を恐れなければならないのである。

もし、神の御業と言うものがあるのだとすれば、全ては神の御業であり、自分が善を意志するのは神の御業であり、自分が悪に流れるのも神の御業であり、善を為す自分に対しては神を讃え、悪に流れる自分に対しては神を恐れなければならない。

もし神の御業と言うものがあるのだとすれば、全ては神の御業であり、自分は自分の操縦席に座っているのではなく、自分は神に操られる自分を観察する立場にある。自分が自分の操縦席に座り、全てが自分のなすがままだと思い上がった人に、観察の視点はない。それほどに神は恐ろしいことを観察すべきである。

旧約聖書の神ほど恐ろしい神はなく、旧約聖書の民ほど愚かで罪深い民はいない。全ては神の御業であり、民の愚かさと罪深さそれ自体が、神の恐ろしさの現れでなのである。つまりそれほどまでに自分は愚かで罪深く、それほどまでに神は恐ろしい。

神はその御業により完全なる世界を創りたもうたのに、世界はなぜ善に満ちることなく、悪が蔓延っているのか?実に神はそれほどまでに偉大であり、それほどまでに恐るべき神なのである。