アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

神と恐ろしさ

人間以外の生物に罪は無い。例えばトラに人が食い殺されたとして、トラの罪を責める人はいない。また蚊が人を刺して痒みを与えたとしても、蚊の罪を問う人もいない。

哲学が困難なこの時にこそ哲学する意味がある。頭が鈍っていて哲学が困難な、哲学から最も遠いこの時だからこそ哲学する意味がある。能力の低下、自分の能力の無さ、哲学する能力の無さに、自分は常に鈍痛のような「罪悪感」を知らぬ間に持っている。しかし果たして自分の能力の無さは自分の罪悪なのか?

自分の能力の無さを自分の罪悪として自分自身で抱え込むのではなく、自分の能力の無さは実に神の恐ろしさの現れなのである。神は実に恐ろしく、それは私の能力の無さとなって現れる。自分の能力の無さを知る時、人は神の恐ろしさを知るのである。

世界は様々な理不尽に満ちていて、理不尽とは神の恐ろしさの現れなのである。自分の考える能力が低下したこの空白、それこそが神の恐ろしさの現れなのである。

罪悪感にとらわれることなく、神様の恐ろしさを恐怖すべきなのである。

この世に地獄が出現している。地獄とはこの世に出現する。

人は神の姿に似せられて創られている。だから人が善をなすのは神の善性の現れであり、この世に偉大な人が現れるのは神の偉大さの現れであり、人が慈悲深くなるのは神の慈悲深さの現れであり、人が悪を為したり、この世に悪人が存在するのは神の恐ろしさの現れなのである。