アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

セミと常識

キルケゴールの「絶望は死に至る病である」という言い方は、常識的に考えるとおかしい。ここに常識と言うものの性質が現れている。常識人の死とは他人の死であり、自分は観客席からそれを眺めている。人が劇場の観客席に座っている限り、絶望して死に至ることはない。

なぜ哲学を学ばなければならないのか?と言えば「常識」と言うものが害毒であり、それから脱皮しなければならない。常識とは何か?と言えば、子供は常識を身に付けて大人になる。しかし大人になってもなお、子供の頃に身に付けた常識の皮を被っていたままでは、内部の大人の精神は腐ってしまう。

常識そのものが害毒と言うよりも、子供が大人になるために身に付けた常識の皮を、大人がいつまでも着たままでいる事が害毒になる。セミの幼虫は硬い外皮に覆われているが、それが無ければ体がドロドロに溶けて形を保つ事ができない。人間の子供にとっての「常識」もそのようなもので、常識を身に付ける事によって、子供は人間としての精神を形作ろうとする。

常識が形成できない子供は、精神がバラバラになり精神としての「形」が形成できなくなる。ところが、子供から大人になる段階で身に付けた常識を、そのままの形でいつまでも「自分の精神の形」とする事は、実に不健全なのである。

セミの幼虫が立派な厚い皮を着たまま大きくなって、それで満足して一生を終えるのなら、それは不健全な事である。セミの幼虫の皮の中に、大人のセミを閉じ込めたまま年老いて行くとすれば、それほどおぞましいものはない。

セミの幼虫がどれだけ立派に大きくなろうとも、脱皮して翅を広げなければセミになったとは言えない。しかし人間は、どう言うわけなのか、成虫になるのが非常に難しいセミで、大半は幼虫の姿のまま、その内部の肉体を不健全に腐らせながら、長生きして満足している。「常識」とは昆虫が持つような硬い外皮であって、中身がどれだけ腐ろうとも身体の形は保っていられるのである。

常識とは仮の認識であって、真の認識ではない。人は真の認識をする以前に、仮の認識によって認識の足場を固めなければならない。認識の足場とはあくまで仮の足場であって、本来的にやがてそれは取り払わなければならない。

常識とは仮住まいのバラックのようなもので、「建築」とは異なっている。