アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

共同体と裏切り

○嫉妬や羨望の感情はなぜ生じるのか?聖徳太子の十七条憲法に「人皆党有り、また達れる者は少なし」とあるが、人は皆グループを作りたがるが、その中で特に優れた者はいないのである。人が作るグループとは何か?と言えば、人間は多細胞動物であると同時に、群体動物としての性質を持つのである。

多細胞動物とは、多数の細胞が集まって一つの個体を形成するのであるが、各細胞はそれぞれに機能分化し交換が効かない。しかし原始的な多細胞動物、例えばコウガイビルは細長い体をいくつかに切断すると、その破片のそれぞれに頭と尾が生じて個体として再生する。

○罪悪感とは、共同体に対する裏切り行為に対する後ろめたさであり、従って共同体を形成しない動物には罪悪も罪悪感もなんの後ろめたさも生じることはない。

罪悪感の対義語は難しいが、罪悪感の反対の、悪をなすことの喜びは、ほんの些細なことであっても確かに存在する。つまりそれは、共同体を裏切ることの罪悪感の反対の、共同体を裏切ることにより得られる密かな喜びである。

共同体に対する裏切りによって得られる喜びとは、つまりは羨望の産物である。羨望の感情は、共同体の中で自分が理想とする地位が得られない場合に生じる。

人が共同体の中である一定の地位を得るためには、まず生まれながらの諸条件があり、それに加えて自らの努力が必要となる。

その人に羨望が生じるのは、自分の生得的な諸条件に対し不満を持ち、それによって自分が共同体において満足な地位が得られてないと思いなし、なおかつ自分が努力することに対しての怯えが存在することによる。

羨望のある人は、自分の欠点を克服する努力をすることに対する強い怯えがあり、その反動で自分に可能な「共同体に対しての復讐」行為にのめり込み、そこに密かな喜びを見いだし、そのようにして罪を犯す。

一見、努力家のようでいて、実は努力することから徹底して逃げていることの反動として、努力せずとも自分に可能な行為に没頭しているだけの人が存在する。そのような人は実際に犯罪を犯さないまでも、どこかで共同体に対する裏切りの罪悪感と、その裏腹の密かな喜びとを感じている。

そのような人は共同体の恩恵を受けながら、共同体の建設という共同作業を、どこかで密かにズルをしてサボっているのである。

人が共同体の内部で一定の地位を得ようと努力することは、共同体の建設という共同作業に参与することを意味する。その意味で「虚名」を得ようとすることは、共同体においていかに地位が向上しようとも、本質的には共同体への裏切りであり、羨望の産物に過ぎない。

羨望とは対象物の破壊の衝動を含むもので、それは自分が共同体においてなんらかの形で報われないことの恨みが、共同体のなんらかの部分の破壊衝動へと転じるのである。

人間が欲しがるものは、共同体における地位に還元できる。なぜならあらゆる入手可能なものは、共同体における何らかのステータスを示すからである。ところが時代や地域や人によって「共同体」の捉え方が異なっている。

そして宗教者や哲学者は「共同体」を時間も地域も超えた「普遍的な共同体」と捉え、そのため原理的に羨望は生じ得ない。これに対し多くの人は共同体を「自分の目に見える範囲の共同体」として捉え、つまり各自の見える範囲を普遍的な共同体であるとそれぞれに錯誤し、そのために様々な羨望を生じる。

人間は個人よりまず先に共同体的な存在であり、それは一つには言葉の原理に因る。共同体とは全く無関係に単独で生きる存在に、例えばカマキリがいるが、カマキリが単独で生きられるのは、誰からも何も教わる必要もなく単独で生きる術が生まれながらにしてインストールされているからである。

人間は生きる上で誰かから何かを学ばなければならず、その意味で人間は個人よりも以前に共同体的な存在だと言える。そしてヒトの子はイヌの子やサルの子よりも、親からより多くの物事を学ばなければならず、それらと動物よりもさらに共同体的な存在だと言うことができる。

しかし単独生活者のカマキリも、メス・オスによる共同作業により子孫を残し、「種」というレベルの共同体の維持に貢献している。そもそも多細胞生物であるカマキリの身体そのものが共同体的な存在であり、そのようにあらゆる生物は個別以前に共同体的な存在で、人間も例外ではないのである。

人間は本質的に個人を擲って共同体に貢献しなければならない。何故なら個人は共同体ありきで存在し得るから。しかしその場合の共同体とは、より普遍的な共同体として認識しなければならない。各自が目に見える範囲の共同体に囚われているなら、それは真の意味での共同体ではなく、そこから羨望が生じる

普遍的な共同体とは、一神教における神であり、仏教における神々を超えた存在であるブッダである。何故なら文明とはその起源において神の名によって統治され発生したからであり、それは現代においてもなお継続している。左翼が夢想するような神なき人民による国家統一は「科学的」にもあり得ない。

つまり芸術というものも普遍的な共同体への貢献なのであり、だから個人の表現として屹立しうるのである。岡本太郎が主張するような共同体を離れた個人的表現というものは、正常に発達し得なかった奇形として、判で押したように類型化してしまうのだ。