私と存在

自分は存在しない。いや少なくとも「自分が存在する」と素朴に認識するようには自分は存在しない。実際に、目に見えるあらゆるものは、他人が作ったものであり、自分が作ったものは何一つ存在しない。自分で自分の顔が直接見ることができないのと同様、自分の目には他人が作ったものだけが見えている。

自分が存在しないのに、なぜ他人が存在し得るのか?他人もその一人一人がそれぞれの「自分」であるはずなのに、自分が存在しないならば他人も存在しないのではないだろうか?

「他人」とはいったい誰なのか?例えば、今私の目の前に見える道路や自動車や街の建物は皆、私ではなく他人が作ったものである。しかしその他人とは誰かと言えば、誰か一人の他人ではない。人がものを作ると言うことは本質的には共同作業であるので、それを作ったのは誰かと言うその一人を特定できない。

いやしかし、少なくとも芸術作品に作者は存在する。モナ・リザの作者はレオナルド・ダ・ヴィンチだし、アヴィニョンの娘の作者はピカソである。しかしモナリザと言う作品をダヴィンチが一人で作り上げたのか?と言えば厳密にはそうではない。

ダヴィンチはモナリザを描くにあたって、そこで使われた写実技法や油彩技法などの全てを一から自力開発したのではなく、先人たちの技術や知識を引き継いで、これを発展させたのである。つまりモナリザの作者はダヴィンチ一人ではなく、人類史的な共同作業の結果として作品が存在するのである。

かつての私は作者不在の「非人称芸術」のコンセプトを提唱したのであったが、しかし改めて考えると作者が存在するとされる芸術作品も、本質的には非人称芸術なのである。

一般に役者や音楽を使った映画作品は共同作業で、対して絵画は独りで描けるとされている。しかし絵を描くには、誰かから描き方を学ばなければならないし、紙や絵の具も買わなければならない。正確には自分独りだけで絵を描くのは不可能で、たとえ独りで描いたとしても、それは必然的に共同作業になる。

小説や詩も共同製作ではなく、独りで書けるとされている。しかし「言葉」を覚えなければ何も書けないし、言葉とはそもそも人類の共有物として、長い歴史を重ねている。そのような歴史的な共同作業の一環として、小説や詩が書けるのである。

また、小説や詩を「書く」場合、文字や筆記具や紙といった存在は、原始時代には存在し得なかった「文明」の産物なのである。そして文明というのは、原始時代にはなし得なかった、膨大な数の人びとを集めて共同作業を行うためのシステムなのである。その文明的な共同作業の一環として、小説や詩を「書く」行為がある。

すると作者とは何か?と言うことが問題になるが、少なくとも原始社会における神話には名前のある作者が存在しない。古代ギリシャ神話にも名前のある作者はいないが、プラトンの著作にはプラトンという名前の作者が存在する。

ところがプラトンの諸作はプラトン自身の言葉ではなく、ソクラテスの発言が記されており、しかもそのソクラテスの発言も、ソクラテスから直接聞いたのではなく、その言葉を又聞きした他人の記憶を頼りに再現する形で書かれている。なのでプラトンの著作は、実際には非常に複雑な構造によって語られて、人が何かを語るという事自体が共同作業であることを示している。

つまり人間とは何か?と言えば、誰もが何らかの共同作業に参加してその一翼を担っているのであり、人間は何をしようとしても必然的に共同作業に参加してその一翼を担ってしまう存在なのである。

今日の初めの問題に戻れば、眼に見えるあらゆる人工物の全ては人類史的な共同作業の結果であり、それは作者が明確とされる芸術作品も本質的には同じなのである。そして、そのような人類史的な共同作業の結果である人工物をただ見て認識するだけで、「私」も必然的にその共同作業に参加するのである。

人間とは何か?と言えば共同作業をする存在であり、それがキルケゴール死に至る病』冒頭に記された「人間とは関係への関係である」と言うことである。

「自分」で哲学的思索を深めようとも、「自分」で芸術作品を製作しようとも、それは必然的に人類史的な共同作業なのである。すると優れた哲学者や優れた芸術家とは何か?と言えば、共同作業をするのが上手い人を指すのである。

一般に、優れた映画監督は共同作業が上手く、その結果として総合芸術としての名画が出来上がる。また優れたメーカーも、共同作業によって優れた製品を生み出す体制が整っている。同じように優れた哲学者や優れた画家も、人を集めて共同作業をするのが上手いのである。

哲学も芸術も、本質的には「独りの作者」が特定できない人類史的な共同作業だが、映画に映画監督の名を冠するように、メーカーの製品にメーカー名を冠するように、「印」としての作者名を、哲学書や芸術作品に冠するのである。

つまりあらゆる表現分野の作者とは、実質的には映画における「監督」と同じであり、人びとは「印」としてその作品の監督名を知りたがる。監督名=作者名とは分類のための印であり、それがあった方が別の新たな共同作業をする上で便利なのである。作者の名前は人類史的な共同作業の利便性により存在する。

「私」とは何か?なぜ私は「私」の存在を明瞭に認識するのか?と言えば、他人もまた私(糸崎公朗)の存在を明瞭に認識するのである。なぜかと言えば、私が「私」を必要とする以上に、他人が私(糸崎公朗)を必要としているからであり、それが「人間は共同作業をする存在である」ことの意味なのだ。

そして私自身も「私」を必要とする以上に、他人を必要としている。私が何をしようとしてもそれは必然的に共同作業となり、そのため私は他人を必要とする。それは他人にとっても同じことで、私が「私」を必要とする以上に、私の存在は他人に必要とされる。そのような関係として、私とそれ以外の他人が存在する。

広告を非表示にする