アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

マキャヴェッリ 君主論 抜き書き2

●敵から身を守ること、味方をつかむこと、力またははかりごとで勝利をおさめること、民衆から愛されるとともに恐れられること、兵士には命令を守らせるとともに尊敬されること、君主に向かって危害を加えらる、あるいは加えそうな連中を抹殺すること、厳格であるとともに丁重で、寛大で、濶達であること、忠実でない軍隊を廃して新軍隊をつくること、自分に当然の尊敬をはらわせ、あるいは危害を加えるにも二の足を踏むように、国王や君侯たちとは親交を結ぶこと、以上すべてのことがらこそ新君主国において、必要欠くべからざるものである。

残酷さがりっぱにーーもし悪についてもりっぱにという言い方を許していただければーー使われたというのは、自分の立場を守る必要上一度はそれを行使しても、そののち、それに固執せず、できるかぎり臣下の役にたつ方法に転換した場合をいう。

ある国を奪いとる場合、征服者は残酷な加害行為を日々蒸しかえしたりせぬように一気呵成に実行するように配慮し、蒸しかえさないということで人心を安らかにし、恩を施して民心をつかまなければいけないということである。

要するに、加害行為は、一気にやってしまわなくてはならない。そうすることによって、人に長く味わわさないようにすれば、それだけ人を怒らせることも少なくてすむのである。これにひきかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。

民衆の願いは貴族のねらいよりはるかに穏当であり、貴族がおさえつけることを望むのに対して、民衆は抑圧されないことを願うだけである。さらに加えて、民衆は多人数であるため、民衆を敵にまわす君主は安閑としておれないが、貴族に対しては、相手が少数だから、安心していられる。

君主が民衆を敵視するばあい、起こりうる最悪の事態は、民衆から見放されることである。 

事実、人間というものは、危害を加えられると信じていた人から恩恵を受けると、ふつう授けてくれるばあい以上に恩義を感ずるものだ。

平時にあっては誰もが皆はせ参じたり、約束してくれるのである。死が遥か彼方と見る時は、皆が皆、わが君の為には死をも辞さないと言ってくれるのである。だが、いざ風向きが変わって、君主がそうした市民を本当に必要とする時がくると、とてもそういう人間は見いだせるものではない。

さて、君主は、戦いと軍事組織と訓練以外に, いかなる目的も、いかなる配慮も、またいかなる職務も、もってはいけない。つまり、これが統治者に本来属する唯一の任務なのである。

 フランチェスコ スフォルツァは武力をもっていたため一市民からミラノ公になった。また彼の子息たちは軍備のわずらわしさを避けたためにミラノ公の身分から振り出しに戻った。つまり非武装があなたの上に及す弊害は色々あるが、特に問題なのはあなたが人に見くびられることである。

君主は、かたときも軍事上の鍛練を念頭から離してはならない。そして平時にあっても戦時をしのぐ鍛練を行なわなければならない。

君主は歴史書を読み、それをとおして偉人の残した行動を考察することが必要である。戦争にさいして、偉人たちがどういう指揮をしたかを知り、彼らの勝ち戦や負け戦の原因がどこにあったかを検討しつつ、前者を範とし、後者を避けるようにしなくてはならない。そして、とくにある偉人が過去に行なったとおりのことをやらなければならない。

君主たる者は、自分の臣民を結束させ忠誠を守らすためは、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。というのは、あまりに憐れみ深くて混乱状態をまねきやがて殺戮や略奪を横行させる君主に比べれば、残酷な君主はごくたまの恩情ある行ないだけで、ずっと憐れみ深いとみられるからである。また、後者においては、君主がくだす裁決がただ1個人を傷つけるだけですむのに対して、前者のばあいは、国民全体を傷つけることになるからである。

聡明な君主は、平時にあっても断じて安逸をむさぼるべきではなく、努力して、これをりっぱに実践し、逆境におちいった場合にも十分に生かすようにしなくてはならない。つまり運命が一変してしまったときでも、運命に耐えられるような心構えをもっていなくてはならないのである

昔からの君主国も複合国も、また新しい君主国も、すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力とである。よい武力をもたぬところに、よい法律のありうるはずがなく、よい武力があって、はじめてよい法律がありうるるのである。

愛されるのと恐れられるのとはどちらがよいか。誰しも両方をかねそなえていることが望ましいと答えるであろう。だが、この二つを同時に具備することは難しい。したがって、かりにそのどちらかを捨てて考えなければならないとすれば、愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である。というのは、人間については一般に次のことがいえるからである。そもそも人間は、恩知らずで,むら気で、偽善者で、厚かましく、身の危険は避けようとし、物欲には目のないものである、と。

人間は恐れている者より愛情を感じていた者を容赦なく傷つける。この理由は元来人は邪悪であり単に恩義の絆で繋がれている愛情などは自分の利害がからむ機会が起きればすぐにでも断ち切ってしまうからである。だが恐れている者に対しては、処刑の恐怖でしっかりと縛られており決して見殺しにしない。

君主は例え愛されなくても人から恨みを受けないようにして恐れられる存在にならなければならない。つまり恐れられる事と恨みを買わない事とは立派に両立しうるのである。これは君主が自分の市民と領民の財産や彼らの婦女子にさえ手を出さなければ必ずできることである。#マキャヴェッリ 君主論

人間は、父親の殺されたのはじきに忘れてしまっても、自分の財産の損失はなかなか忘れないものであるから、とくに他人の持ち物には手をださないようにしなくてはならない。

いま君主が軍を率いて、多くの兵士の指揮にあたるようなとき、そういうときであれば、残酷という悪名など頭から問題にしなくてよい。つまり、こうした評判が立たないようでは、軍隊の結束をはかり、軍事行動に出ることなどけっしてできないからである。

臣民が愛するのは、彼らが思うままにすることである。また恐れるのは、君主が思うままにすることである。従って賢明な君主は本来自分の方針に基づくべきであって、他人の思惑などに依存してはならない。ただ先に述べたように憎しみを買うことだけは努めて避けるようにすればよい。

戦いに打ち勝つには二つの方法がある。一つは法律によるものであり他は力によるものである。前者は人間本来のものであり後者は本来野獣のものである。だが多くの場合最初のものだけでは不十分であって後者の助けを求めなくてはならない。つまり君主は野獣と人間とを巧みに使いわける事が必要である。

昔の著述家はアキレウスはじめ多くの古代の君主たちが半人半馬のケイロンのもとに預けられて、この獣神のしつけを受けたことを書き記している。ここで半人半獣を家庭教師にしたという話は、君主たる者はこうした両方の性質を使いわけることがぜひ必要であるということを言おうとしているのである。

君主は野獣の性質を適当に学ぶ必要があるのであるがその場合野獣の中では狐とライオンに習うようにすべきである。というのはライオンは策略の罠から身を守れず狐は狼から身を守れないからである。罠を見抜くという点では狐でなくてはならず狼どもの度肝を抜くという点ではライオンでなければならない。

名君は信義を守ることがかえって自分に不利をまねくばあい、あるいは、すでに約束したときの動機が失われてしまったようなばあいでは、信義を守ることをしないであろうし、また守るべきではないのである。尤もこの教えはもし人間が皆よい人間ばかりであれば間違っているといえよう。だが人間は邪悪なものであって貴方に対する信義を忠実に守ってくれるものではないから貴方の方も人々に信義を重んずる必要はない。その上、信義の不履行を合法的に言いつくろうための口実は、君主にはいつでも見いだせる

大胆にこう言っておこう。そうした立派な気質を備えていて、つねに尊重しているというのは有害であり備えているように思わせる事、それが有益であると。つまり慈悲深いとか信義に厚いとか人情があるとか裏表がないとか敬虔だとか思わせることが必要である。それでいて、もしそのような態度を捨てさらなければならないときには、まったく逆の気質に転換できるような、また転換の策を心得ているような気がまえが、つねにできていなくてはならない。

君主という者は、とくに新君主のばあいは、国を維持するために信義に反したり、慈悲に反したり、人間味に反したり、宗教に反した行動にたびたびでなくてはならないということを知っておいてほしいのである。つまり一般に、よい人だと考えられるようなことばかりを後生だいじに守ってはいられないということである。それゆえ、君主は、運命の風向きと事態の変化とが命ずるところに従って、変幻自在の気がまえをもつことが必要である。

できうれば、よいことから離れずに、それでいて必要やむをえぬときは、悪にふみこんでいくことが肝要である。

君主に謁見し、彼の話にききいる人たちに対しては、君主がどこまでも誠実で、信義に厚く、裏表がなく、人情味にあふれ、宗教心に厚い人物と思われるように心を配らなくてはならない。しかも、この中でも最後の気質が身にそなわっているように思われることほど大切なものは他にない。

人間は総じて実際に手にとって触れるよりも目で見たことだけで判断してしまう。それは見ることは誰にでもできるが、触れることは少数の者にしか許されないことによる。すべての人が外見だけであなたを見てしまい、実際にあなたに触れているのは、ごくわずかの人である。