自力と他力

全ての芸術は「非人称芸術」である。と言うのは私にとって大きな発見である。いや正確にはそうではなくて、一人称という言葉の定義が問題になる。「私とは何か?」とは哲学的な問題であり、素朴な認識による「自明な私」により「非人称芸術」の概念を構築したことは間違いであったが、それは全面的に否定されるものではない。

 

つまり「私の考え」と言うのも実は私一人だけの考えではなく、人類史的な共同作業の一環であり、その意味で何らかの必然があって生じているのである。問題は私の「非人称芸術」理論が間違っていたことよりも、それ以前に私の「芸術における作者とは何か?」と言う認識が間違っていたのであり、「私のは何か?」という認識が間違っていたのである。

 

そして正しくは、芸術における作者とは、実は非人称的な存在であり、「私」とは明確な一人称ではなく、実に非人称的な存在なのである。

 

けっきょくのところ、芸術家は自力ではなく他力によって芸術作品を現象させる。芸術とはものではなく現象である。芸術家は魔法使いのような存在で、魔法を使って芸術を現象させる。魔法とは方法であり、方法とは自力ではなく他力である。

 

科学は魔法の延長にある。科学とは実利的な現象を生じさせる方法であり、方法とは他力である。科学は物理法則という他力をコントロールすることによって、実利的な現象を生じさせる。

 

芸術も科学と同様に魔法の延長なのであり、芸術家は方法によって、即ち他力によって、芸術という現象を生じさせる。いや魔法をもっと普遍的な呪術という言葉に置き換えるならば、芸術は実に文明の発生と共にあり、芸術が文明を作ったという一側面がある。

 

文明を成立させるには、血族を超えた赤の他人による大人数の人々を終結させる必要があるが、それは方法としての呪術によって行うことができず、新たな段階による「芸術」という方法によってそれが可能になる。

 

つまり、誰かと王様を名乗る人物が、立派な装飾品を身につけ、立派な神殿を構えるなら、そこに多くの人々が集まってくる。呪術を使ってはそのように人を集めることはできないが、芸術にはそれが可能なのである。

 

還元主義的に捉えるならば、芸術も科学も呪術に還元できる。呪術とは「他力」であるが、しかし原始社会において「他力」というのはまず構成員の数が数十人規模と少ないことと、文字がないので記憶の蓄積量も乏しい。そこで原始社会における他力は「神頼み」になる。

 

ところが「文明」段階になると、人の数が格段に増え、文字の発明により記憶の蓄積量も格段に増え、あらゆる面での「他力」が増大したのである。

 

人工物に覆われた文明世界は「他力」がみなぎっている。文明世界に偏在する「他力」を利用すれば、人はなんでも思ったことを成し遂げられる。つまり何かをしようと思った時、その「やり方」というもの自体が「他力」として存在することを捉え、これを学んで習得すれば良いのである。

 

フォースの力!スターウォーズのようなおとぎ話は、実に現実をたとえ話で表現しているのであり、その意味でフォースの力も実在する。『帝国の逆襲』のヨーダによると、フォースはどこにでも存在し、そのフォースを感じ取ることで、フォースの力を使うことができる。

 

これを現実的に考えれば文明世界というのは人工物に覆われており、全ての人工物には「他力」が宿っているのであり、その「他力」を感じ取ることができれば、「他力」と一体となりそれを自らの力のように利用できる。

 

つまり漫然とものを見るならば、それは自明的な「もの」でしかないが、ものが人工物である限りそこに「方法」と「歴史」が存在するのであり、そのようにして「他力」が宿っているのである。

 

ピカソは天才だと言われているが、実に大いなる「他力」の使い手なのである。ピカソの力、オリジナリティがありバリエーションに富む大量の作品を生み出す力は、ピカソの自力ではなく「他力」なのである。

 

私がデジカメを手にして間もない頃、昆虫写真家の海野和男先生の真似をして「チョウの飛翔写真」を撮ろうとしたが全くうまくいかなかった。チョウの飛び方は不規則で、これをカメラで追いかけて撮るのは至難の技なのだ。

 

しかしそれからしばらくして、海野和男先生と一緒にチョウの撮影をする機会を得て、実際に海野先生の撮り方を見ると、自分自身はほとんど動かず、チョウがカメラの近くに来た瞬間にパッと撮影されているのである。

 

これに対して私は飛んでいるチョウを闇雲に走って追いかけ、挙げ句の果てに一枚も撮れないでいたのである。つまり海野先生はチョウの習性をよく知り、自分の力は極力使わずに撮影を成功させている。海野先生は「他力」を使って自力を抑え、私は自力だけでなんとかしようとしながら失敗を重ねていた。

 

岡本太郎の芸術論とは、つまりは「他力」の排除なのである。岡本太郎は「芸術にリクツはいらない。自分の感性だけを信じろ。」というように説くが、「他力」を排除して「自力」だけを頼りにすれば、誰にでも芸術は生み出せると主張している。

 

それはつまり、一つには「他力」を使うためにはそれ相応の修行が必要であることを意味している。修行とは「他力」を身につけるために行うもので、だからこそ師匠が必要なのである。しかし「自力」でやるなら修行の必要はなく、だから誰でも芸術家になれると岡本太郎は主張するのである。

 

「他力」を排除して「自力」だけで作品を作ろうとすると、オリジナリティもバリエーションも乏しくなるのであり、そのことはピカソ岡本太郎の作品群を比較するとよく分かる。

 

実に岡本太郎が主張するような「純粋な自力」はあり得ない。自分が素朴に「自力」だと思っている力も実は「他力」なのである。

 

産まれたばかりの赤ん坊は無力で、様々な「他力」を習得しながら大人になる。しかし大人になったある時点で、自分が身に付けた「他力」を「自力」と勘違いし、そうそれ以上の「他力」をシャットアウトしてしまうならば、自らの「他力」の力量はそこで限界となる。

 

そのように限界のある「自力」のみで芸術作品を作ろうとしても、けっきょくは内容は空疎になり、似たようなものしか作れずに、やがては行き詰まってしまう。そのような人はピカソのように晩年まで「生きた芸術」を生み出すことはできず、長生きしても生ける屍のような作品しか作ることができない。

 

近代戦は武器という「他力」の所有によって勝敗が決まる。だからかつての大日本帝国は「他力」の保有量で圧倒的に勝るアメリカに負けたのである。また現代において北朝鮮は「核」という大いなる「他力」を手に入れることで、日本を脅威を与えいる。

 

しかしそれなのになぜ岡本太郎が言うように、芸術家だけが「他力」を手放さなければならないのか?これは実に平和憲法と重なる問題なのである。

 

戦後の日本人アーティストは岡本太郎の呼びかけにより武装解除し、戦争を放棄している。

 

芸術家が戦争をすると言うことは、他を圧倒するより優れた芸術を産み出そうとする事である。しかし岡本太郎は武装放棄すれば誰でも芸術家になれると主張する。つまりこれは芸術家としての戦争放棄であり、誰もが似たり寄ったりの、互いに優れることのない芸術を産み出す事なのである。

 

一体、芸術としての戦争のないところに芸術は存在しうるのか?平和を愛し武装放棄した戦後日本のアーティストが作る作品は、本当に芸術と呼べるものなのか?