アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

物質と精神

物質主義は盲目をもたらすと、宗教家の手島郁郎先生は述べているが、芸術は物質であって物質でないという二つの側面を持つ。それは人が肉体という物質的側面と、非物質的な精神的側面の、二つを持つことと対応している。

肉体という物質があって、精神という非物質が存在しうる。少なくとも個人の発生において人は人としての精神のない肉体だけの赤ん坊として生まれ、その後より非物質的な精神を築き上げる。

精神の無い肉体に、どのように精神を築き上げるのか?それは束石や柱や床材、壁材、瓦などに相当する、精神的な建築資材を余所から持って来て、それを組み合わせて積み上げるのである。

非物質的な精神的建築資材は、他者の物質的肉体に一時保管されている。一時保管と言うのは、どの人間もいつかは死んでしまうから一時保管なのである。人はそのような自らの精神的建築資材を、空き地である子供の中へと運び入れ、大人としての精神を築く。

物質主義とは何か?近代とは物質の時代であり、だから物質主義批判も出てくる。私の観たところでは、近代的な物質主義とは呪術の延長にあり、だからこれは旧約聖書にも記されている呪術批判に通じている。

いや聖書だけでなく、古代ギリシャ哲学においても、古代インド仏教においても、実利を願う呪術は下等なものとして使用が戒められている。人は実利的なものに心を奪われてはならず、だから物質主義が批判される。

物質には物質の法則があり、物質の法則を明らかにすることで物質をコントロールし、人々に様々な実利をもたらすことができる。物質が人に実利をもたらすのは、人の肉体が物質であり、肉体の延長としての物質が人に実利をもたらす。

精神に役立たない物質と、精神に役立つ物質とがある。まず人に快楽、気晴らし、優位性をもたらす物質は精神に役立たない。しかし人に交流をもたらす物質は、論語に「朋あり、遠方より来たる」とあるような意味で精神に役立つ。

近代的な物質主義の産物である世界交通網や印刷技術などによって、我々は『聖書』と『ソクラテスの弁明』と『ブッダの言葉』と『論語』とを読めるようになったのである。しかし書物から何を読み取るか?はまさに精神の問題で、沢山の本を読めばいいと言うものではない。

手島育郎先生も、物質主義に溺れたクリスチャンには、真の意味での聖書を読む能力が失われていると、嘆いておられるのである。また、私が尊敬する日本人哲学者の西田幾多郎先生も、自分は読書量はそう多くないと述べておられる。

近代以前の人々が思い描いた呪術の力は、イギリスの産業革命によって、それが物質の法則を解明することによって可能になることが、解明された。物質の法則は連鎖しており、技術的な進歩も連鎖的に自律的に進化し続ける。すると人間の精神的な進歩とは何だろうか?

人間は赤ん坊として生まれ年齢と共に大人へと成長する。つまり人間の精神的成長は子供から大人への成長であり、大人に成ってから成長が止まることなく、さらなる大人へと成長し続ける事が、人間の精神的成長なのである。

子供とは自然であり、大人へと成長することは自然からの離脱を意味している。大人とは自然に非る人工産物であり、人類史的な蓄積の産物である。しかしその源はどこにあるのか?

ともかく人には「自己反省」の能力が備わっているのであり、それによって色々なものが見えてくるのであり、そこから精神的成長という現象も生じる。そして物質主義への批判とは、これによって自己反省の眼が妨げられてしまうことへの批判だと言える。

実に、物質から法則を見出す科学技術の発達も、人間に備わった自己反省能力の一環なのである。つまり人の肉体は物質であり、この自己としての物質を反省的に捉える視点から科学技術は生じるのである。

ところが科学技術はある一点においての自明性に依拠しており、その点においての自己反省性が決定的に欠けており、それ自体では精神的成長に寄与できない。つまり科学は人の「自然性」から生じる欲望に依拠しているのであり、だから呪術の延長として捉えられるのである。

子供から大人に成長するにつれ、自然的な欲望は断念される。親は子供のために自らの自然な欲望を断念するからこそ、人の親たりうるのである。子育てする動物の親も、自分の欲望を断念するからこそ子育てができる。

他者認識できない動物は自らの欲望を抑える術を持たず、子育てができない。よって昆虫は卵から生まれると同時に、親の手を借りず自分一人で生きているようにできている。

いやしかし考えてみると、子育てしない昆虫も、卵を産む場所は、生まれた幼虫が適切に育つ場所を時間をかけて選別する。アゲハチョウは飛びながら緑色の葉を識別し、前脚の味覚器官によって幼虫の食草であるミカン科植物を見分け、そこに産卵することが知られている。

動物には個体としての死があり、それ故に徹底して自己のために生きることはできず、必然的に子孫という他者のために生きる側面を持つ。しかし昆虫の産卵など利他的行動は、本能によって制御されている。本能は動物の欲望を制御している。

例えば「食べる」という欲望は、満腹感に制御されているのであり、そのような本能は人間にも備わっている。しかし人間は、自然的な欲望の制御を超えて、自身の欲望を制御することで「大人」へと成長する。