アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

学問と一般化

反省とは何かと言えば、一つには自己を「一般化」して捉える事である。人間の自然な感情においては、自己は多くの他者たちと違う特別な何かのように実感されるが、自己をそのような例外としてではなく、多くの他者たちと立ち並ぶように一般化して捉えようとする行為を反省と呼ぶ。

そもそも哲学的思考というものが、あらゆる事物の「一般化」を目指していると言える。つまり普遍とか、客観などと言われるものは、一般化と言い換えることができる。一般化を極限まで追求したところに、客観や普遍や真理と言ったものが出現する。
私を「特別な私」として他者から際立たせて捉える限り、真の反省も哲学もあらゆる学問も生じることがない。

私を一般化して他者に埋没させて捉えたところから、真の反省が生じ、哲学が生じ、あらゆる学問が生じる。

学問とは、ユニークでオリジナルな「私の考え」を構築することではない。そのような「私の考え」はことごとく理論的に閉じて現実に的中しない「幕の内弁当理論」に過ぎない。

真の学問は「一般的な学問」に新たなページを書き加えることである。そこには「私」は存在せず「学問」が存在する。

芸術においても、ユニークでオリジナルな「私の芸術」を作るのではなく、一般的な美術の流れ(美術史)に新たな作品を加えることが、本来的な在り方だと言える。 

歴史とは一般化であり、一般化したものが歴史となる。世界には数かぎりない出来事が常に生じ続けているが、それぞれにユニークで仔細で数かぎりない出来事の集積を、ごく大雑把に一般化することで、歴史が生じる。

神の前では誰もが一般人に過ぎない。私が例外的な「特別な私」であり続ける限り、その人は絶対に神を知ることができない。