環境と知性

『野生の思考』を再読しようと思って、まずは最後のサルトル批判の『歴史と弁証法』から読んだのだが、フッサールラカンに比べたら簡単かと思ったら、思ったより難しくて手強い(笑)しかし私は時代的にこの影響を大きく受けているはずなので、その確認の必要を感じたのである。

文明人と野蛮人の違いは、一つは文明と自然という生息環境が異なっている。しかしどちらも自らや環境によく適応している点で変わりがない。また文明人にとって文明の環境は自分が物心ついた頃からすでに存在していた「贈り物」であるのと同様、野蛮人にとっての自然環境もそうなのである。

ホモ・サピエンスの知的能力は極めて高く、その能力差は文明人も野蛮人も変わることがない。むしろ人間の能力は、厳しい環境において高まり、安定した環境において低下する。

文明人には環境としての「文明」が贈り物として与えられている点が野蛮人とは異なる。しかしなんらかの贈り物がそれぞれの環境に応じて与えられているという点で、文明人と野蛮人とで変わることはない。

人類学者自身が、飛行機を考案したり飛行機を製造するのではない。人類学者は自分に与えられた飛行機という文明の利器を使うことで、世界中を飛び回り人類学の調査を行うことが可能となったのである。その受動的運命に対する積極性は、野蛮人と同様の性質だと言える。

つまりアフォーダンス理論によると、知性は生物個体にではなく、環境のうちに含まれるのである。だから文明人としての知性は、文明人その人のうちに内在しているのではなく、文明という環境に含まれる。その意味で「素の人間」を取り出せば文明人も野蛮人も変わるところがない。

文明人であっても、自らが所属する文明という環境へと接続を拒否すれば、つまり文明という環境からのアフォーダンスを拒否すれば、その人は文明人ではなくなる。文明内には実際にそのような「文明人ではない人」が多数含まれている。

実に近代文明は分業化が進み、多くの人が文明のうちの限られた環境のみに適応し、すなわちごく部分的なアフォーダンスを受けるのみで、総合性を欠いている。大多数の「適応不完全な文明人」によって、文明というシステムが作動している。これに対し野蛮人は誰もが環境に総合的に適応している。

知性は環境に含まれるのならば、環境を直接的に詳細に観察して分類して名付ける直接的知性こそが、知性なのである。つまりパスカルの『パンセ』はそのような直接的知性を説きながらデカルトの概念的思考の空虚さを批判している。

レヴィ=ストロースの『野生の思考(パンセ・ソバージュ)はパスカルの『パンセ』に掛けている。そして野蛮人の知性が「直接的」なのと同様、パスカルの知性も環境に対し直接的なのである。

そしてパスカルデカルトの概念的知性を批判したのと同様、レヴィ=ストロースは野蛮人に対する偏見を「概念的」として批判している。

私の思考は少なくとも「非人称芸術」においては概念的思考であった。それは芸術に対する恐怖に根ざしている。恐怖が対象への直接性から人を遠ざけ、概念的思考へと陥れる。概念的知性は臆病の産物でしかない。勇気とは環境に直接対峙する勇気を指す。

『野生の思考』によれば、野蛮人にも呪術とは異なる「医術」が存在する。それは植物と人体に関する「直接的知性」であるが故に現実的な治療効果をもたらす。科学とは何かと言えば、一つには「直接的知性」なのである。

レヴィ=ストロース構造主義ポストモダンの先駆けである所以は、近代という変化する時代において、人間の「変化しない面」を明らかにした事による。人間の知性のあり方は、近代人が思っているほどには「変化しない」のである。

むしろ近代人の方が、知的に退化しているのであり、だからこそ野蛮人の知性が劣っているのだという偏見が生じるのかもしれない。すなわち近代では分業の制度によって、科学的知識は科学者だけが所有しているのであるが、野蛮人の部族においては構成員の全員が植物学者なのである。

いや、植物学に限定するのではなく、近代においては「直接的知性」をそれぞれの専門家が所有し、何の専門知識もなく、日々忙しく働くだけで暇のない膨大な人々が存在する。

一方で知性は暇の産物であり、メイン州のペノブスコット属は、彼らにとって何の有用性もない爬虫類についての実に立派な分類学を確立しているのである。暇によって娯楽としての知性が生じるのは古代ギリシャの例が示した通りである。

野蛮人の直接的で総合的な知性は変化せず、文明人の知性は分業化によって部分に分解され、その意味において衰えている。ところが文明人は、個人の知性が衰えた代わりに、文字によって知性を外部化し、その外部の知性を歴史的に拡大し続けている。むしろ外部化した知性の拡大を「歴史」と名付けている。