アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

敗戦と日本人

極端と中庸。岡本太郎の芸術論も、赤瀬川源平超芸術トマソンも、私の非人称芸術も「極端」であり、特定の時代と地域に根ざして偏向しており、普遍性がない。これに対して中庸とは特定の時代や地域を越えた普遍性であり、一般性である。

そこで岡本太郎の芸術論、赤瀬川源平超芸術トマソン糸崎公朗の非人称芸術を「一般性」の視点で捉えるならば、それは「キッチュ」と言うものであり、近代以後の大量生産、大量消費を背景とした大衆文化があって生じた現象の、その一環だと見ることができる。

第二次大戦後の日本の大衆文化は、戦勝国であるアメリカに対する復讐としてあったのではないか?日本は「権威」による争いに負け、「反権威」としての大衆文化によって復讐を遂げようとした。だから戦後の日本人にとって「反権威」と言うことが特別な意味を持った。それは私にとっても例外ではなかった。

ごく荒っぽく言えば、戦後日本のカルチャーは死んでいて、サブカルチャーが活き活きと発展し、世界に君臨している。このように戦後の日本は、権威が逆転している。それは世界的に権威が逆転する風潮にあり、日本がそれに乗ったと言う面もある。

戦後の日本は戦車や戦闘機など兵器の生産は極力抑えて、そのかわり民生品の自動車を大量生産し、アメリカに輸出して、挙げ句の果てにデトロイトの工業地帯を廃墟にしてしまった。戦後の日本はそのような「戦い方」をしてきており、同様の戦い方をさまざまな分野の人々が無自覚的に採用している。

つまり、文明史的にみて日本は辺境の常に遅れた地域であり、イギリスから始まる産業革命にも遅れを取り、まともなやり方をしても勝つことはできない。だから「まともではない」やり方によって一点突破の道を開こうとするのであり、それが戦中の特攻隊であり、戦後の自動車の大量生産なのである。

このやり方が芸術の分野に波及すると、岡本太郎の芸術論になり、赤瀬川源平超芸術トマソンになり、私もその影響から非人称芸術なるコンセプトを生み出したのである。しかしまともではないものは、まともではないが故に勝つことはできない。可能なのは「勝つと信じる」ことだけである。

ここで以前に問いを立てた「信じるとは何か?」についての答えが出たのだが、信じるとは「勝ちを信じる」ことに他ならず、その場合は実際に負けているのである。信じる人騙されているのであり、騙されない人は哲学者のみである。

私は非人称芸術理論によって勝ったと信じていたのだが、実際には負けていた。私は哲学によって、自分の負けをようやく認めるに至ったのである。私の前は日本の敗戦の延長にあり、それは明治維新の遅れた近代化の時点で決まっていたのである。

しかし状況がどうであれ、「勝ち」を得ている人は確かに存在する。明治以降の日本人で言えば、福沢諭吉であり、西田幾多郎であるが、状況がどうであれ、周囲に流されず「まとも」に戦う人は実際的な「勝ち」を得るのである。

私の場合は、自分が日本人としても落ちこぼれだという自覚があったこともあって、初めからまともな勝ちを諦めて、悶々としながら「まともではない勝ち方」の勝機を狙っていて、ようやくその機会が訪れたのが「非人称芸術」の発見だったのである。

非人称芸術とは何かと言えば、結局は日本人に固有の「まともではない勝ち方」の一環であり、それは実際の勝ちではなく「勝ちを信じること」だけしか得られない。そのように私は「一般的な」日本人として自ら負けを選び取っていたのである。

戦後の日本は、戦前以上に近代化を推し進めて、工業を発展させ、大躍進を遂げたのだが、軍事的には独立しておらず、アメリカの核の傘の下に守られ、実際的にはアメリカの属国に甘んじている。この状態は少なくともマキャヴェッリ的に言えば国家として「まともではない」。

しかし戦後日本の教育では「国家とは何か?」についてのまともな定義を教えていない。つまり日本が敗戦後常に「負け続けている」ことを直視せず「信じる」ことで自らのアイデンティティを保っている。その事がさまざまな分野に、さまざまに歪な形となって現れている。

それは美術の分野で言えば村上隆の歪な芸術のあり方として現れているが、つまり!私は村上隆の芸術を当初から毛嫌いし心の底から憎んでいたのだが、それはまさに近親憎悪でしかなかった!私は村上隆さんと同世代だから憎しみもひとしおなのだが、実に兄弟同士は仲良くしなければならない。

相手の顔が歪んで見えるのは、実は鏡に映った自分の顔が歪んでいたのである。あるいはまた、自分の顔が歪んでいるが故に、相手の歪んだ顔が真っ直ぐに見えることもある。そのように私には岡本太郎の芸術論が「まとも」に見えた時期があったのである。