アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識と志向性

私の場合は「階級闘争」などという言葉は一応聞いたことがある程度で、それが具体的に何を意味するのかは知らないし、自分には全く関係のない古い時代の概念だと思っていたのだが、いま改めてマルクスエンゲルスの『共産党宣言』を読むと、私自身の思考の志向性そのものが、階級闘争の解消へと全面的に向かっていたことが、明らかになった。

そして自分が階級闘争において勝利できないと認識した時点で、階級そのものを無効化する方法を見出そうとする。そのために階級とは書かれた歴史の産物であり、それ以前の階級の存在しなかった世界に回帰しようとする。それと、近代を背景とした生産量の増大を利用し、持つ者と持たざる者という格差を解消しようという、その「志向性」において非人称芸術の概念は見出されたのであった。

認識において志向性はいかに重要であるか、ということは、人間が本質的に騙されやすい性質を持つことで理解できる。すなわち、自分はどのように騙されたいのか?というその志向性が、認識の志向性なのである。そして共産主義的思考とは、それにおける共通の志向性を指している。つまり自分がどのように騙されたいのかの志向が、共産主義的思考を持つ者の間で共通しており、それで皆同じように失敗するのである。

魔法というものは、信じればそれが「本当」になるという性質を持つ。信じることができなければ、魔法がとけて本当だと思っていたものが「ウソ」に転じて消えてしまう。だから人々の志向性は、魔法がとけて欲しくないという方向に働き、つまり自ら望んで騙されようとする。

魔法を生み出して、それを信じるようにすれば、何でも「本当」になる。そこで自分も含めた人々が気持ちよく騙されるための、どのような「魔法」を構築するかを、頭の良い人は考えようとする。このような「志向性」が人間には明確に備わっている。

人間には積極的に騙されようとする志向性と、そのための嘘を構築しようとする志向性が備わっている。

人間の認識は、現実と必ずしもぴったりと対応していない。にも関わらず、人間は現実と自分の認識とがぴったりと一致していると錯覚する。人間の認識はダイレクトではない。人間の認識が「間接的」なのは、自分の認識を他人に預けているからである。

平たく言えば、自分で直接認識するのではなく、他人があるものをこう認識したという話を聞いて、それを鵜呑みにして、自分の認識に置き換えるのである。つまり脳というのはマルチメディアであって、自分が見た記憶と、他人から〇〇を見たという話を聞いた記憶とが、同列に扱われ、そこで認識の間接化が生じるのである。

人間は言語機能によって「偵察」の能力を獲得した。例えば狩の集団が敵に襲われそうになった時、全員が同じように敵の存在を確認しようとすると、発見され襲われる率が高まる。そこで一人だけ偵察に出て、他の集団は隠れていれば、的に見つからずにその姿を発見する率が高まる。

そのかわり、偵察に出なかった他のメンバーは、敵の存在を間接的に知るようになる。そして、日常生活においても多くの人が、自分では直接見聞せず偵察隊を放ってその報告を聞いているのである。

多くの人は安全な穴倉に隠れながら、偵察隊の報告を待っている。そして時に偵察隊は、みんなを喜ばせるため積極的に嘘をつく。なぜなら多くの人は真実ではなく自分たちに都合の良い嘘の報告を待ちわびているからである。

そして、嘘をつくためには、自分で嘘を構築しなければならない。そのようにして頭の良い人は、巧妙かつ壮大な嘘を構築し、自分を含む多くの人を騙すのである。そのような共犯的な志向性が、人々の間に存在する。