アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

権威と自然

権威の否定には二重の意味がある。一つは実質的が無いにもかかわらず権威だけがある状態に対する否定。もう一つは権威そのものの否定である。ところが、権威を否定しようとする側の者も「自分にこそ権威がある」と主張するのであり、誰も権威そのものを否定することはない。

すると、反権威主義とは権威そのものの否定ではなく、権威ぶったものの偽物性を摘発し、真に権威あるものを明らかにすることに他ならないが、実質的にはその救済への志向性において、自分に都合の良い権威を主張しようとするのである。

それで権威というものは、王権神授説によれば王が神様から授かるものなのである。つまり王よりも神ほうが権威がある。そして近代において神の摂理は科学に置き換わった。つまり近代においては「人によって書かれた歴史」よりも、神の摂理であるところの科学法則にこそ権威がある。

共産主義はこれを背景としている。自然物を観察し、その美しさと巧妙な仕組みに感動し、これは人が作る芸術より優れていると思いなすのも同様で、人の権威の上に神を置き、神を科学に置き換えているのである。

自然観察の魅力、これに夢中になるのは原始への回帰の欲求が満たされるからである。それは近代的な概念が反転して、近代以前はおろかそれをはるかに超えて文明以前の原始への回帰なのである。もともと科学には、文明以前の原始への回帰の要素を含んでいる。

そもそも科学とは人間の原始的な欲求に応えるためのものであり、その意味で人々への救済として存在する。科学は真実の追求のようでいて、決してそうではないのである。