アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

安心と既成

私自身、安心への志向性が強かったのは、まずは明瞭に自分は劣っているという意識があったのだが、それは明瞭に学校の成績によってそのように明瞭にランク付けされたからである。いやそれで安心を得る道はただ一つで、勉強すればいいだけの話だが、私にはどうもそれをやる気にはならなかった。

今から思うと奇妙なことだが、現在自分がしているような主体的に問題意識を持ってする勉強と、学校の成績を良くするためにする勉強とでは、自分自身のやる気が全く異なっている。いやそういう問題ではなく、まず文明的に人が大勢集まれば、実際問題としてそこに能力的に格差が生じるのである。

そして、その能力の格差はいかに埋めることができるか?の方法は誰にでも平等かつ明瞭に示されていて、とにかく勉強して成績を上げることだけである。ところが、人には頭の良し悪しとは別に、学校の勉強に対する「やる気」の格差というものが確然とあって、それが「成績の差」にダイレクトに反映される。

「やる気」というのは精神の問題であり、だから勉強のやる気がでない人は罪悪感に苛まれる。いずれにしろ近代的国民国家というものは、国民の質を向上させ国力を上げるために、国民の能力をランク付けして競争心を煽る必要がある。

いやそれよりも、人間には社会に寄生しているという側面と、一個の独立した人間の、二つの側面がある。そして、自己確立が弱いかまたはできない人々が、「安心」を志向するのである。

安心を求める人は社会に寄生している。なぜならハンブラビ法典を読めばわかる通り、文明社会にはもともと未亡人や盗難の被害者などの弱者をいたわり、国民に安心を与える思想があったのである。

しかしそもそも社会に寄生していない人間は存在しない。なぜなら人間は言語を使う点からして本質的に群体動物だからである。だからソクラテスマルクス・アウレリウス福沢諭吉も社会に寄生している側面を明瞭に有している。

ソクラテス福沢諭吉も、人間として社会に寄生いると同時に「自分は社会に寄生している」という認識を持っている。その認識を持つには社会の「外部」に出ながら「社会」というものを対象化しなければならない。

けっきょくのところ、社会の内部にあって外部を知らず閉じ込められている人が安心を求める。

「自分」には社会に寄生する存在としての自分と、宇宙の始まりから起源を一つにする枝葉としての自分との、二つの側面がある。このうち前者のみ意識して後者を無意識のまま生きる人は、宇宙の法則に従って安心を求める。前者と後者を意識する者は宇宙の法則を我が物として安心を求めることはない。

社会の内側にとどまる限り、社会的にどのようなランク付けの人であっても安心を求める。そもそも安心への志向性から、人は社会的ランキングの上位を目指し、あるいはこれに羨望するのである。そして社会の外部に出ることができる者だけが、安心の必要性から逃れることができる。