アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

オブジェと共産主義

お金を何となく汚いものと思うのも、アートとお金は根本のところで無関係だと思うのも、ものを正せば共産主義の影響を無自覚的に受けているのである。自らの共産主義は浄化されなければならないが、そのためには自らの共産主義を対象化し、自覚化しなければならない。

ところで、美術におけるオブジェとは何か?私は日本の「もの派」についてつい最近まで全く知らなかったのだが、それは私の勉強不足もあるのだが、私がよく読んでいた赤瀬川原平さんの本に「もの派」についての記述がないのである。

赤瀬川さんの著作には、トマソンと関連づけて「オブジェ」についての言及はあったように思うが「もの派」という言葉は出てこなかったように思う。結局のところ赤瀬川原平さんは自分が興味を持ったり、直接関わった以外の美術について、一切記述しないし、と言うことは認識もしていないのである。

それは、私自身もそのような態度で美術に接していたのであり、だから「もの派」についても全く知らずにいたのだが、最近の私は路線変更して、自分の主観を特別視せず、自分を一般化して捉えることによって、総合的認識を獲得しようとしているのだ。

赤瀬川さんはオブジェについて、最初の単行本『オブジェを持った無産者』(1970)の中でデュシャンのレディ・メイドと関連づけて述べている。結局のところ美術におけるオブジェとは近代の産物であり、共産主義思想と深く関わっている。

近代とは科学の時代であり、それは「第二の自然」を産み出した。つまり科学技術により、人類史上かつてない規模で生産されるようになった大量の人工物が「第二の自然」を形成するのが近代なのである。科学技術とは自然の力の開放であり、世界を覆い尽くす大量の人工物は、実は自然の力の具現化なのだ。

デュシャンのレディ・メイドはいずれも工業製品であり、例えば便器を置いただけの『泉』は「これが芸術なのか?」と言う問いであると同時に「自然物は芸術なのか?」という問いでもあるのだ。

つまり人工物には二種類ある。便器などの工業製品は、まず人間の自然な欲求を満たすために作られ、そして自然の力の解放としての科学技術によって量産される。これは以上の二重の意味で、人工物でありながら一方では自然物なのである。

これに対して、優れた古典芸術は、本質において人工物なのである。だからデュシャンがテキストにより表現した相互的レディ・メイド「レンブラントの絵画をアイロン台として使用すること」は実際的には無意味でしかない。実際にそれをやれば、人工物を自然物と錯誤したことになる。

芸術におけるオブジェとは、近代的な科学技術によって量産されたものである。それらは人間の自然で、野蛮で、動物的欲求を満たすための実用物であり、自然としての人間のあらわれなのだある。