アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

言語とオーバーテクノロジー

リバースエンジニアリングをするには自分もエンジニアでなければならない。エンジニアとは何か?その人は物事の原理を知っている。原理とは何か?原理とは理屈であり理屈とは言語である。原理を知るエンジニアはエンジニアリングとしての言語とは何かを知っている。

 

言語には二種類がある。言語は人間であれば誰でも使っている。これが言語の第一の意味である。つまり言語とは何かの理屈は知らなくとも、人間であれば誰でも言語は使うことができる。カメラでなぜ写真が撮れるのか?と言う理屈は知らなくとも、誰でもカメラのシャッターを押せば写真は撮れる。

 

カメラの他にも電子レンジやエアコンやスマホなど、世の中はその原理を知らなくとも誰でも使えてしまうものであふれている。その筆頭が「言語」であり、いや、そもそも人間の肉体そのものも、その仕組みを知らなくとも身体として自動的に機能して、誰もがそれを利用していると言える。

 

つまり言語にはブリコラージュ的な使用法と、エンジニアリング的使用法の二種類がある。そう、人間にとって言語とは、そもそもが松本零士銀河鉄道999』のようなもので、この漫画の設定では、999号は外宇宙の遺跡から発見されたテクノロジーを、原理が解明できないままに使用しているのである。

 

人類にとって言語とはまさにそのようなもので、誰もが言語の原理をわからないままに、それを完璧に使いこなしている。いや、言語に限らず人類にとっては世界のあらゆるものが、世界そのものが、オーバーテクノロジーとして他者から贈与されている。

 

このような人類にとって他者から与えられたオーバーテクノロジーを解析することが「エンジニアリング」の本質なのである。対してブリコラージュとは、人類にとって他者から与えられたオーバーテクノロジーを、その原理に遡ることなく「使いこなすこと」へのベクトルを指す。

 

これに対しエンジニアは、オーバーテクノロジーの原理を解析することで、その使いこなしのレベルをブリコラージュとは違う次元へと引き上げることを目的とする。それが専門家と、熟練したユーザーとの違いなのである。