アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

鬱の克服

思い出したのだが、これはだいぶ以前にTwitterに書いたことだが、私は極度の鬱病を患っている。いや一般常識で言えば私は鬱病ではなく、医者もそのように診断しないだろうと思われる。鬱病と言うのはもっと酷い症状を指しているのだと言う意見も最もである。

しかしそんな世間の言うこととは関係なく、私ははっきりと鬱を患っていて、これは何としても克服しなければならないのである。鬱を鬱として自覚しなければ鬱を克服し治療することはできない。「あなたのような程度は全く鬱病とは関係ない」と言われようと、それこそ関係ないのである。

鬱病だと診断されるレベルに達しない人の中に、かなりの割合で私のように鬱を患っている人はいるのではないかと思う。それは程度の問題であり、質としては確かに鬱を患っている。医者にかかる程度とは言えなくとも、克服すべき鬱は確かに人それぞれに存在し、それは鬱病だと自覚し克服せねばならない

そもそも私の見たところ、現代日本人の殆どが鬱を患っているように思えるのであり、私自身も例外ではないのである。例えば街を歩く人々の顔を見ても、電車に乗っている人々の顔を見ても、大抵が意識レベル、気力レベルが低下した顔をしているように思える。

つまり世の中のほぼ全員が鬱病だと、その状態が「標準」となりその層から「鬱病」の概念が無くなり、さらに病的程度の高い層に対してのみ「鬱病」の概念が適用されるようになる。

こうなると実に鬱病を克服した人間の方が「異常」であると言えるかもしれない。そもそも人はなぜ鬱病になるのか?現代という複雑怪奇な時代が人間にとって「不自然」であり、そのような環境で鬱を発病するのは自然で当たり前な事であり、それを克服するのもまた「不自然」な行為と言えるかも知れない。

だが私としてはそれがどれだけ「不自然」で「反自然」的であっても、自らの鬱病鬱病として自覚して、何としてもこれを克服しなければならない。それには「反自然」的に決断し「不自然」に行動しなければならない。

そもそも芸術は「反自然」的認識から生じた「不自然」な行為であり、自然的な認識から生じた自然的行動から芸術は生じ得ないのである。