アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

人格と光配列

私が認識間違いをしていたのは、人間は動物に備わっているべき本能のほとんど失っていて、その本能に取って代わる行動プログラムを言語によって構築するのだと思っていたのだが、それは反面は妥当性があるものの、実際の人間には本能的な「動物言語」の多くが備わり、日頃からそれを多用しているのだ。

ところで、ギブソンが述べるように、絵画が光配列による情報を描いたものだとすれば、芸術とは光配列による情報の一種に他ならない。芸術ではない絵画作品には、光配列による芸術としての情報が含まれていない。芸術作品には光配列による芸術としての情報が含まれている。

人間の人格は、光配列による情報に変換されて表現される。「芸術の何たるか」を備えた人の絵画表現には、光配列による芸術としての情報が表現される。

人格そのものは光配列ではないが、人が絵を描いた際に、その人の人格が光配列による情報に変換される。その情報に、芸術が含まれる場合と、芸術が含まれない場合とがある。

光配列は、たかだか光配列でしかない。絵画とは限られた面積の範囲内の光配列でしかない。しかし、光配列は実に多様な種類の膨大な量の情報を含んでいる。その人が描いた絵画作品にも、その人が撮った写真にも、その人自身の全人格が光配列による情報となって現れているのである。

芸術とは「芸術」という言語であり、「芸術」という言語は、作品中に表現された光配列による芸術としての情報に対応している。

しかし「芸術」という言語と、光配列による芸術としての情報が、人によっては対応しない。その日の人格に「芸術」が備わっていなければ、「芸術」というシニフィアン(記号表現)は、芸術のシニフィエ(意味内容)に結び付くことがない。

ここでシニフィアンシニフィエが逆転するのだが、芸術が光配列そのものだとすれば、芸術とは極めて具体的なシニフィアンとして存在する。あるいは芸術とは極めて繊細なシニフィアンとして、光配列の中に現れている。それは人間の人格および精神の変換形態である。